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「博徒、テキヤ、新興の外国人グループ、それに愚連隊……。いろんな組織が入りまじり、毎日死人が出ていたよ」

 

記憶をたどるように目を細めた。元安藤組組長・安藤昇氏。終戦直後、渋谷を拠点に愚連隊のリーダーとして名を上げ、500人の構成員を率いた。’64年に組を解散。映画俳優に転じた「伝説のヤクザ」だ。

 

「敗戦で秩序や価値観が一変したのは、裏社会も一緒。力のある組織だけが生き残る“ヤクザ戦国時代”だった−−」

 

日本にヤクザが誕生して500年。安藤氏がヤクザとして生きた“戦国時代”こそが「500年興亡史」の縮図であり、安藤氏が引退した’64年を境に、500年の歴史は二つに分断される。

 

「光は新宿より」のスローガンとともに、闇市「新宿マーケット」が誕生したのは、終戦からわずか5日後、’45年8月20日のことだ。市場を取り仕切ったのは、関東尾津組組長・尾津喜之助。「あらゆる日用品の大量適正販売」を旗印に、新宿東口一帯・7万人の商店関係者を傘下に収めた。一方、新橋、渋谷では「関東松田組」が大規模な闇市を支配していた。当時新宿マーケットで働き、現在は吉祥寺ハモニカ横丁を取りまとめる水野秀吉氏は振り返る。

 

「闇市がなかったら東京の人はほとんど餓死していたと思うね。裸電球がずらっと並んで、“闇市”というけれど昼間みたいに明るかった」

 

一方、安藤氏は言う。

 

「戦後の混乱期、ヤクザと警察は持ちつ持たれつの関係だった。治安維持にヤクザは一役買っていたんだ」

 

当時は中国や台湾、朝鮮人らが盛んに闇市に進出。しかし、警察はそれを取り締まるどころか、’45年10月には尾津喜之助を東京露店商同業組合の理事長に任命し、治安維持をまかせた。そうして、尾津組や松田組と外国人との衝突は激しさを増していく。生家が京都市のヤクザだった作家の宮崎学氏は次のように語る。

 

「GHQ支配下の警察は拳銃の所持さえ認められなかった。ところが、外国人は機関銃まで持っている。警察はヤクザの力を借りざるをえなかった」

 

宮崎氏の父親も、朝鮮人に地元警察署が襲撃された際には、警察に呼ばれて応援に駆けつけたという(’46年1月、「七条警察署襲撃事件」)。

 

’47年に尾津喜之助は鳩山一郎、河野一郎らが所属した自由党から衆院選に出馬。落選したものの、党に300万円を提供したとされる。その後も、要人来日の際やスト破り、デモ隊への殴りこみの際は、必ずヤクザに声がかかった。ヤクザの歴史は権力との“蜜月の歴史”でもあったのだ−−’64年までは。

 

東京オリンピックが始まるころ、警察とヤクザの関係は変化を見せはじめた。’64年、安藤氏は安藤組を解散する。暴力団に対する世間の向かい風を敏感に察知しての決断だった。その年に始まったのが、第一次頂上作戦(暴力団壊滅作戦)だ。安藤氏が振り返る。

 

「実際、多くの組が解散に追い込まれたし、風当たりは当然変わった。警察やときの政府も、“用がなくなればポイ”というのもどうかと思うが、それが世の中というものなんだろう。しかし、ヤクザと社会の関係は、いまも変わらない。ヤクザは社会の中を流れる大河のようなもの。雨が降れば氾濫し、日照りが続けば水量も減るだろうが、河そのものはなくならない。いつの時代もヤクザはいたし、バブルが弾けようが、低成長になろうが、ヤクザという大河は流れていくよ」

 

(週刊FLASH11月10・17日号)