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「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました」

 

令和元年5月1日。この日、執り行われた「即位後朝見の儀」の生中継を真剣なまなざしで見つめる1人のオーストラリア人男性がいた。

 

「ついに、ついにこのときが来たんですね……」

 

アンドルー・B・アークリーさん(60)。高校2年生のとき、交換留学生としてオーストラリアから来日し、学習院高等科に。そう、彼は陛下の“ご学友”。先月、青春時代の思い出を綴った『陛下、今日は何を話しましょう』(すばる舎)を出版したばかりだ。

 

「学習院時代、陛下のことは『宮さま』と呼んでました。その後、皇太子になられて『殿下』と呼ばなくてはいけないのに、僕はついつい『宮さま』と言ってしまうことも。今度、もしお会いする機会があったら、また間違えて『殿下』と呼んでしまいそうです」

 

若き日の陛下と過ごしたかけがえのない日々。いまもアンドルーさんの心に浮かぶのは、物事のすべてを決して否定的に受け止めることなく、常に前向きで笑顔を絶やさない……そんな穏やかな陛下のお顔と、お言葉だ。

 

「陛下はいつも、僕たちが意見やアイデアを申し上げると、『あ、いいですよ』『大丈夫ですよ』と必ず肯定してくださる。そのポジティブなお言葉が、胸にとても響くんです。だから、この先もし僕が間違えて『殿下』と呼んでしまい慌てて謝ったとしても、きっと陛下は『大丈夫ですよ』と笑顔でおっしゃってくださると思います」

 

アンドルーさんは1958年、オーストラリアのメルボルンに生まれた。国連関係の仕事をしていた父の赴任に伴い、10代前半をスリランカやジャマイカで暮らした。ジャマイカからの帰国途中に初来日。つかの間の滞在だったが、15歳のアンドルーさんは「きれい好きで、安全な国」と、日本に好印象を抱いた。

 

そして1年後の’75年、交換留学生として再来日。学習院高等科のオーストラリア人留学生第1号として、2年A組に配属された。陛下も、時を同じくして高等科に進学されていた。

 

「学校に日本のプリンスがいることは知っていました。たしかに校内にSPの姿はありました。でも、特別待遇を受けている生徒はいないし、全員が同じ詰め襟の制服ですし。どなたが陛下なのか、まったくわからなかった」

 

第二外国語のドイツ語の授業で、偶然隣り合った生徒が、陛下の学友の1人だった。

 

「厚かましくも僕は『ぜひ、陛下に会わせてください』とお願いした。当時の僕の夢は外交官。日豪親善のためにも、ごあいさつ申し上げたかった。すると、彼は快く引き受けてくれた。校舎は学年ごとにフロアが別なので、休み時間に彼が陛下と一緒に僕のいる2階にまで来てくれて、僕を紹介してくれたんです」

 

陛下の柔和な笑顔に引き込まれるように、覚えたての日本語で自己紹介。さらに続けて、自分でも驚くようなことを口走っていた。

 

「僕とお友達になっていただけますか?」

 

陛下はより一層の笑みを浮かべて、こうお答えになったという。

 

「喜んで」

 

この出会いが、アンドルーさんの、先の人生を大きく変えることになった。

 

「まっすぐ目を見て話される陛下から、優しいオーラを感じました。近くにいるだけで、こちらまで心が温かくなってくるんです」

 

クラブ活動には、陛下も所属する地理研究会を選んだ。恒例の研修旅行の旅先で、アンドルーさんは、この新しい友人が日本のプリンスであることを、改めて思い知らされる。先々で一行は、日の丸を振る1,000もの人たちの大歓迎を受けたのだ。

 

「もちろん、陛下を歓迎する人々です。そして、陛下は長旅の疲れも見せず笑顔で手を上げ、そのまま僕らと同じバスに。僕はその様子に、とても驚きました。当時の日記に僕は『駅に大勢いました。宮さまはかわいそうだと思う』と書いています。どこへ行っても大群衆が待ち構えていて、それに応じることは大変だろうと思ったんです。でも、それは大間違いですね。陛下は大勢の国民が喜んで出迎えてくれて本当にうれしかったんだろうなと、いまならわかります」

 

’76年1月4日。アンドルーさんは東宮御所にいた。留学期間を間もなく終える彼を、陛下が御所にお招きになったのだ。

 

「それが初の御所訪問。『ここは日本のパレスだ!』と、すごく緊張した。御所の玄関を入ってすぐの待合室にいると、5分とたたずに陛下がお見えになって。『今日は来てくれてありがとう』と英語でごあいさつをいただきました。それから、居間に案内され、楽しく会話をしていたのですが……」

 

しばらくすると、そこに上皇陛下に美智子さま、それに秋篠宮さまに黒田清子さんと、ご一家がおそろいでお見えになられた。

 

「美智子さまの英語はネーティブの人のようにお上手でした。『日本での学生生活はどうですか』などのご質問を受けましたが、お言葉の端々に、息子の友人である僕への気遣いや思いやりが感じられて、僕は素晴らしい友人、素晴らしいファミリーと知り合えたという喜びでいっぱいでした」

 

御所訪問の6日後、アンドルーさんは帰国の途に。友人たちから贈られた寄せ書きには、陛下、上皇陛下、美智子さま、お三方も直筆のお言葉を寄せてくださっていた。

 

「感動しました。機内で寄せ書きを拝見しながら『帰ったら必ず陛下に手紙を書こう』と誓いました」

 

帰国後、アンドルーさんと陛下の文通が始まった。

 

「印象に残っているのが、登山合宿の思い出を陛下がうたわれた和歌、それに陛下お手製の版画で富士山が描かれた年賀状。細やかな工夫が細部にまで見られて、次のお手紙が待ち遠しくなりました」

 

アンドルーさんはメルボルンでも日本語の勉強を続けた。日本領事館主催の日本語弁論大会にも出場し見事、3位入賞を果たした。

 

「日本への思いは募るばかりでした。そして、もう一度日本へ留学することを決意しました」

 

’77年4月。アンドルーさんは東京外国語大学へ留学するため、再び日本の地に降り立った。再来日を報告すべく、すぐに御所にも足を運んだ。

 

「このとき、面白半分で陛下に英語で話しかけてみたんです。すると陛下も英語で答えてくださって。英語での会話はとても弾みました。陛下の高い英語力もさることながら、日本語でお話しされているときよりも、どこかリラックスした陛下のご様子が印象的でした」

 

もしかしたら、陛下は外国人のアンドルーさんとの英語によるやり取りの中で、ほかの学友の前でも出すことの少ない“等身大のご自分”を、お見せになっていたのかもしれない。

 

後日、アンドルーさんのこんな申し出を、陛下はご快諾された。

 

「よろしければ、僕に英語のお話し相手をさせてください」

 

以後、月に2回ほど、御所に招かれるように。それは高等科時代以上に濃密な、陛下との日々だった。

 

それは’77年12月。アンドルーさんが再来日して間もないころ、オーストラリアの家族が日本に遊びに来たことがあった。アンドルーさんは大切な友人である陛下に、家族を紹介したいと考えた。

 

「自分でも厚かましいと思いながら、陛下に『家族に会っていただけませんか?』とお願いしたところ、陛下は快く承諾してくださって。家族とともに御所を訪ねると、いつもの居間に、なんとご一家が勢ぞろいされていた。僕は陛下お一人でも恐縮する思いでしたから、これには本当に驚きました」

 

家族同然のアフタヌーンティー。上皇陛下はアンドルーさんの父を、美智子さまは彼の母を、そして秋篠宮さまと清子さんは2人の妹を、それぞれお相手されたという。

 

それから5年後の’83年6月。23歳になられた天皇陛下は、イギリスへご留学に。ご出発の日、侍従に呼ばれアンドルーさんは、陛下のお見送りに御所に参じた。

 

羽田空港に向け陛下がご出発になったのち、その場に残られていた美智子さまに、「お寂しくなりますね」と声をかけた。すると、思いもよらぬお言葉が返ってきた。

 

「アンドルーさんもちゃんとしていますか? 私はあなたのお母さんに頼まれているのですから」

 

縮み上がる思いだった。

 

「母のあまりに大胆なお願いには驚きを通り越して肝を冷やしました。でも、それ以上に美智子さまが、6年近く前の母の言葉を覚えていてくださったことに感動しました。後日、母に確認したところ『たしかに、あなたのことをよろしくお願いします、と言ったような……』と。困ったことに当の本人はよく覚えてないんです(苦笑)」

 

今後の陛下に期待することとしてアンドルーさんはこう話す。

 

「即位され、ますますお忙しくなられると思いますが、お体に気をつけて精いっぱい、頑張ってほしい。両陛下とも海外での経験も豊富ですから、今後も各国との交流を、もっと進めていただきたいです」

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