母の介護に夫の急逝…憔悴の寺田理恵子を励ましたユーミンの存在

投稿日:2022/06/19 06:00 更新日:2022/06/19 06:00
母の介護に夫の急逝…憔悴の寺田理恵子を励ましたユーミンの存在
寺田さんの人生の節目には、いつもユーミンの音楽があったという

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住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代、仲間とのドライブで聴いた音楽の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょうーー。

 

「いまでも『青春のリグレット』(’85年)を聴くと、“別れた男性が人生のワンシーンの中で、私のことを思い出してほしい……”などと考えていた、若いころの自分を思い出したりします(笑)」

 

こう語るフリーアナウンサーの寺田理恵子さん(60)の人生の節目には、いつもユーミンの音楽があったという。

 

「中学生くらいでしょうか。姉の聴く、荒井由実時代の『ひこうき雲』(’73年)や『卒業写真』(’75年)が耳に入ってきて、“いい曲だな”とは思っていたのですが、歌詞の内容までは理解できていませんでした」

 

キャンディーズや南沙織を筆頭に音楽が大好きで、『夜のヒットスタジオ』(’68〜’90年・フジテレビ系)も欠かさず見ていた。

 

「漠然とですけど“私もいつかこんな番組に……”と思ったのが、アナウンサーを志した原点。高校時代は放送部に入りました。厳しい学校で、歌詞に“愛”だの“恋”だのが入る流行歌を校内放送で流すのは禁止されていたのですが、文化祭のときだけは許されていました。オープンリールのテープを切ったりつなげたりして、編集したものです」

 

’80年に都内の女子大に進学。バブル経済の兆しが見え始めた時期で、「とても自分の娘たちには言えない(笑)」ほど、華やかな大学生活を送っていたという。

 

「ちょうど“女子大生ブーム”が始まった時期で、のちに“3高”や“アッシー”“メッシー”という言葉が生まれるほど、女子大生にはブランド力がありました」

 

イベントコンパニオンの仕事などもたくさんあり、日給2万〜3万円もらえた。好景気に支えられ、車を持つ学生も少なくなかった。

 

「仲間とドライブに行くとき、カーステレオでユーミンを聴く機会が増え、本格的にファンになったのです」

 

中央フリーウェイ(中央自動車道)を走っているときに、車窓から見える競馬場を眺めてみたり、横浜・根岸(歌詞では山手)にある『ドルフィン』に行けば、ソーダ水を飲んでみたり、ユーミンの歌の世界を実体験することも楽しみのひとつだった。

 

当然、コンサートにも行きたいが、人気のチケットはそう簡単には取れない。

 

「予約の電話もなかなかつながらなくて、『公衆電話のほうがつながりやすい』『チケット発売時刻の3秒前に、最後のダイヤルを回すといい』なんていう都市伝説もありましたよね。私の場合、何を試しても取れなかったのですが、大学3年のとき、友達がチケット予約できたんです」

 

それはユーミン恒例の、逗子マリーナでのコンサートだった。

 

「だいたいコンサートというのはホールでやるものと思い込んでいたので、海風を感じられる屋外の会場というだけで特別な体験。しかもショーが始まると同時に、花火が打ち上げられて、その演出にも心を奪われました」

 

一方、大学生になっても“アナウンサーになりたい”という思いは抱き続けていて、アナウンスアカデミーにも通っていた。

 

「当時は『クイズタイムショック』(’69〜’90年・テレビ朝日系)のアシスタントもしていました。といっても、司会の山口崇さんの後ろに立ち、声をそろえて『タ〜イムショック!』と言ったり、席に着いた解答者のシートベルトを締めるくらいでしたが(笑)。テレ朝の番組プロデューサーに『どうしたらアナウンサーになれるんでしょう』と相談してみると、『ウチの局は難しいけど、どこかの局に運がよければ入れるんじゃない!?』と。“壁は高いなあ”と感じさせられるばかりでした」

 

 


アナウンサー時代の寺田さん

 

まだまだ“女性の就職は結婚までの腰掛け”などと言われていた時代。寺田さんも就職活動に熱心になれないところもあった。

 

「卒業後はアルバイトでもして暮らしていこうなんてのんきに考えていたのですが、大学4年の夏、就職課の前を通ったときに、フジテレビの『アナウンサー募集』の張り紙が目に入って」

 

絶対無理だと思いつつも、試験を受けてみると、結果は合格。最初は2年間の契約社員としての採用だったが、2年目に『オレたちひょうきん族』(’81〜’89年・フジテレビ系)の人気コーナー『ひょうきんベストテン』の、2代目“ひょうきんアナ”に抜擢された。

 

ちょうどその時代、寺田さんがよく聴いていたアルバムが、ユーミンの『REINCARNATION』(’83年)と、『DA・DI・DA』(’85年)だ。

 

「色褪せることがないユーミンの曲は、クラシック音楽のように、繰り返し聴いていました」

 

思わぬ幸運が舞い込んだのも、ひょうきんアナ時代。

 

「ユーミンが『ひょうきん族』がお好きだったこともあるかもしれません。番組スタッフが『関係者用のチケットがあるよ』と私に譲ってくれたんです。これがものすごくいい席! だったのですが、まわりは大スターや、テレビ局の偉い人ばかりで、新人アナの私はすっかり緊張してしまい……。残念ながら、コンサートの内容がまったく記憶に残っていません(笑)。ただ、コンサート後の関係者向けのパーティだったと思うのですが、ユーミンと松任谷正隆さんのトークコーナーがあって。結婚してもご夫婦一緒に仕事をするなんて、すてきだなと思ったし、羨ましいとも思いました」

 

その後、フリーとなった寺田さん。長女を出産後、すぐに仕事復帰し“ママアナ”として活躍したのも、ユーミンのそんな姿を見ていたからかもしれない。

 

さらに年齢を重ねると、今度は親の介護などに追われる日々が続くようにーー。

 

「50歳前後は、認知症を患う母の介護が始まり、父が亡くなり、そして’12年末、直前まで会話をしていた夫が倒れて急逝。あまりのショックで体調を崩し、家からも出られず、人とも会いたくない時期が続きました。大好きな音楽も、とても聴く気になれなくて……」

 

傷心のなか、たまたま見かけたのが、ユーミンのコンサート開催を告知する広告だった。

 

「たぶんダメだろうと、予約の電話をかけてみると、なんとすぐにつながったんです。“これは娘2人を連れていって、楽しかった私の青春時代を共有したい”って思いましたね」

 

それまでに見に行ったコンサートと比べ、より未来志向の明るくなれる曲ばかりだと感じられた。

 

「ユーミンから“もう一回、頑張ろう”という、第二の人生を歩み出す勇気をもらいました。音楽の力ってすごい! 大好きな曲を生で聴くと、ホルモンなどにもよい作用があるんじゃないですかね。元気になれました」

 

ユーミンは、どんなときも寄り添い、励ましてくれるのだ。

 

【PROFILE】

寺田理恵子

’61年、東京都生まれ。’84年にフジテレビに入社し、『オレたちひょうきん族』の2代目“ひょうきんアナ”として人気を博す。現在はフリーのアナウンサーとして活躍中。近著に『「毎日音読」で人生を変える』『60代、ひとりで前向きに生きる』(ともに、さくら舎)がある

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