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(写真・神奈川新聞社)

横浜に浜辺を取り戻そうとNPO法人を発足させて奮闘する石田猛さん(86)。漁業者の家に生まれ育った血筋と郷土愛がその背中を押す。幕末の開港から150年余り。市民に身近な新たな“開港”を目指す日々だ。

「この年になっても、本牧で船に乗っていたときの夢を見るんだなあ」

本牧で続いた漁師5代目の石田さんは、33歳までノリ養殖を営んでいた。沖にはノリ養殖のいかだが無数に浮かび、収穫期には浜にすだれのような「のりす」が並んだ。

横浜市立大鳥中学校がある中区本牧原にも砂浜が広がっていた。「ノリを天日干しするために、子どもたちも総出で手伝ったんだよ」

当時の記憶は鮮明だ。ノリ養殖が盛んだったころのパノラマ写真を示しながら、身ぶりを交えて語り始めた。

かつて横浜では、生麦(鶴見区)から金沢八景(金沢区)まで自然の海浜が広がっていた。埋め立てられたのは日本が高度経済成長期を迎え、臨海部に新たな工業用地を求めたからだ。

本牧では1963年から埋め立てが始まり、多くの漁業者は海を失った。仲間とともに設備工事会社「神中工業」(南区)を設立。家族を養うために給排水や冷暖房などの工事を手掛け、必死になって働き続けた。

離れていた海を思い起こさせたのは、やはり家族だった。漁師だったときは小学生だった長男の隆さんと沖に出たことがあった。本牧の浜ではアサリがたっぷりと取れた。そんな話を聞いて本牧で育った孫の祐也さんが10年余り前に言った。「横浜に砂浜があったころがうらやましい」

開港した1859年の横浜は半農半漁の村だった。先祖代々、豊かな恵みを与えてくれてきた横浜の海に感謝してきた。ところが、そうした風習は浜辺の記憶とともに薄れつつあった。

子どもたちは自然とのふれあいがもっと必要ではないか-。一度は失った浜を取り戻そうと、NPO法人「ともに浜をつくる会」(とも浜)を2005年に設立し、理事長に就任した。76歳になっていた。

「ともに」としたのは、海や浜辺の再生、創造を通して「ともに豊かに幸せを」との願いを込めた。横浜の水辺の歴史を学ぶためにノリの栽培体験学習をはじめ、東日本大震災の復興支援などを同じ思いの仲間とともに続けてきた。

09年には150ヘクタールの浜辺再生を求めた「とも浜プラン150」を市に提案。「潮入りの池」の設計・整備など身近な水辺を新たに利用できる具体的なアイデアを発案している。

石田さんは昨年、横浜・みなとみらい21(MM21)地区で保存、公開されている帆船日本丸の名誉船長に就任した。誕生日にあたる進水日と同じ1930年1月27日生まれだった縁だ。

「夢や希望、勇気を与えたい」と「こどもの日」の5日、新たな活動拠点になった日本丸にこいのぼり15匹を寄贈して掲げた。船籍を持ち今も現役の練習船である日本丸と同じように、これからも水辺の新たな“開港”に向けて現役で活動を続けようと意気込んでいる。

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