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米兵による事故についてニコルソン四軍調整官(中央)に抗議する翁長雄志知事(右)=2017年11月、県庁

 

沖縄の歴史の転換点となった-。そう言っても過言ではない沖縄の戦後政治の舞台となった場所がある。米国統治下から1972年の日本復帰を経て現在の2010年代まで、戦後沖縄の激動の歴史を見詰めてきたあの場所を政治部記者が歩いてみた。

 

◇県知事応接室 びょうぶは全部知っている 

 

沖縄政治の舞台と言えばここ。県庁の第1知事応接室に行ってみた。ニュースにいつも映る端正な書のびょうぶが目に飛び込んできた。

 

びょうぶの文字は、かつて首里城正殿にあった「万国津梁の鐘」に彫り込まれている漢文で「万国の懸け橋になる」との意味が込められている。2003年11月、ラムズフェルド米国防長官(当時)が沖縄を訪れ、稲嶺恵一知事(同)と会談した際には、記者が多すぎて急きょ場所が庁議室に変更され、びょうぶも運び込まれた。

 

だが当時の写真をよく見ると、びょうぶの漢文の配置が違う。実はびょうぶは二つある。もともとのびょうぶは1995年、大田昌秀知事時代に設置された。書家・豊平峰雲さんが書いたものだ。2012年に復帰40周年記念で書家・茅原南龍さんから寄贈されたのが現在のびょうぶ。以来、第1知事応接室に鎮座している。

 

時の知事が、要人らと会談してきた応接室。記者が聞き取れなかったやりとりも、一番間近で見てきたびょうぶなら全部覚えているかも。

 

6階にはもう一つ知事応接室がある。第1応接室隣の「第2応接室」だ。ここには歴代知事や行政主席らの肖像画が並ぶ。初代のびょうぶはここにある。両応接室には海外の姉妹・友好都市などからの民芸品の贈り物や沖縄の琉球漆器などが飾られている。貴重品ばかりだが、それらの時価は「分からない」(秘書課)そうだ。

 

知事応接室を含め、県庁の見学は県ホームページから申し込める。ただ知事応接室は日程の都合で、当日にNGとなることもあるそうだ。

 

◇ハーバービューホテル 優雅な「沖縄鹿鳴館」

 

県庁から約400メートル。高台にある老舗ホテル「ANAクラウンプラザホテル沖縄ハーバービュー」にも行ってみた。翁長雄志知事が2015年4月に就任後初めて菅義偉官房長官と会談した場所だ。

 

この時、翁長知事は「『粛々』という言葉を何度も使う官房長官の姿が、米軍軍政下に『沖縄の自治は神話だ』と言った最高権力者キャラウェイ高等弁務官の姿と重なる」と批判した。

 

実は、1963年3月の演説でキャラウェイ高等弁務官が、「自治神話論」として知られる発言をした場所こそ、ここだった。当時は米軍将校クラブ「ハーバービュークラブ」。発言は大きな反発を呼び、その場所とともに記憶されてきた。復帰後にクラブは廃止されホテルが建設された。

 

クラブは沖縄各界の指導者層が集まり「沖縄鹿鳴館」とも呼ばれたという。

 

せっかくなので、普段は高級ホテルに縁遠い記者も、中でランチを食べてみた。優雅な時間が流れるレストランで、当時のクラブの雰囲気をしばし想像してみた。

 

◇与儀公園 基地重圧叫んだ地 

 

1972年5月15日、米統治下にあった沖縄は日本に復帰した。那覇市民会館で記念式典が開かれた一方、隣接する与儀公園では、米軍基地を維持したままの復帰に抗議する県民大会が開かれた。土砂降りの中、与儀公園を埋め尽くした人々の中にいた元県青年団協議会(沖青協)会長の田場盛順さん(75)と、46年後の現場を訪れた。

 

抗議集会の前夜、田場さんら沖青協のメンバー約30人と秋田県から訪れた青年2人の交流会があったという。復帰の瞬間を迎える72年5月15日午前0時に合わせ、参加者たちは嘉手納基地に向かった。「復帰しても沖縄は変わっていない」という現状を目に焼き付け、与儀公園の抗議集会に参加したと田場さんは振り返った。

 

当時の与儀公園は遊具や休憩所などの施設もほとんどなかった。現在は様変わりし、のどかな空気が広がっていた。「公園の景色はずいぶん変わったけど、基地の問題は今もなかなか変わらないね」と田場さんはつぶやいた。

 

◇喜瀬武原 反基地運動の起点に 

 

米軍払い下げの戦闘靴に飯ごう、それと警察犬の追跡を逃れるための消臭用スプレーが必需品ーー。警察の目をかいくぐって恩納岳、ブート岳へひそかに潜り込む。米軍の実弾演習を阻止するため身をていした抗議行動がかつてあった。

 

演習は県道104号を封鎖して行われた。復帰前は住民に通知もなく実弾を撃っていた。基地内立ち入りを禁じる刑事特別法違反で逮捕者も出た。今は実弾演習は本土で実施している。

 

逮捕された一人の仲村善幸さんは「保革問わず全県的な抗議だった。復帰後の新たな反基地運動の起点となった。辺野古で工事が続く今と基本的に何も変わっていない」と語った。

 

◇沖縄諮詢会 戦後行政ここから 

 

戦後沖縄の政治・行政は1945年8月、美里村石川(現在のうるま市石川)に設置された「沖縄諮詢会」から出発した。現在の県庁の基になった組織だ。

 

諮詢委員(職員)には、専門知識を有する人や米軍に反感を抱いていない人などが選ばれたそうだ。場所は、空襲の被害を免れた民間の家屋を借りた。諮詢会は46年3月まで存在し、沖縄民政府が誕生するとその役目を終えた。

 

建物は木造瓦ぶきの伝統的な家屋で、当時としてはとても丈夫な造り。築89年となる現在も残っており、元の所有者の子孫が暮らしている。所有者の男性を訪ねると「雨漏りなどを直しながらだけど、住み心地はいいですよ」と話した。

 

建物(外観)は見学可能で、軒先に説明板もある。うるま市の担当者は「個人宅なので、住人の方の迷惑にならないよう配慮してほしい」と呼び掛けた。

 

(2018年2月18日 琉球新報掲載)