差別のない平和な社会へ課題を共有したハンセン病市民学会「第14回総会・交流集会」=20日、名護市済井出の沖縄愛楽園 画像を見る

 

将来を誓い合った男女が、沖縄県外からの便で那覇空港に到着した。「ふるさとの沖縄で新婚生活を送ろう」。そう思い帰郷した2人だが、空港で別れ、そのまま二度と会えなかった。男性の姉はかつてハンセン病を患った。「遺伝病」という誤った認識を女性の親はうのみにし、結婚を認めなかった。

 

隔離政策を推し進めた国策と社会の偏見は、患者とその家族への差別をもたらした。「信じられないだろうけれど、こんな話ばかりだ」。沖縄本島に住む姉の女性(71)は「国による過ち」と理解しているものの、弟への罪悪感にも責められる。

 

女性は1947年、離島で生まれた。8人きょうだいの次女。貧しく、食べるのに精いっぱいだったが、一家の生活は穏やかだった。変わったのは女性が13歳でハンセン病を発病し、療養施設の愛楽園(名護市済井出)に収容されてからだ。きょうだいもハンセン病を発病した。

 

小さな集落には「ハンセン病の家だ」とすぐに話が広がった。道を歩くだけで後ろ指をさされた。「あんたがたには売らない」。商店で入店を拒否されることもあった。父は荒れた。「お前の腹が悪い」と母を毎日のように殴り、子どもには食器を投げ付けた。母子は自らを守るため、島を出るしかなかった。

 

ハンセン病の症状が治まり始めると、女性は愛楽園を逃げ出した。生い立ちを隠して必死で働き、子どもにも恵まれた。子を産み、改めて母の苦悩と偉大さを思い知った。母は「苦しい」とひと言も漏らさず、子どもたちを支えた。「母がいなければ、私はとっくに自殺していた」

 

2016年2月、ハンセン病患者の家族らが「ハンセン病家族訴訟」を熊本地裁に提訴した。国策によって元患者だけでなく、その家族も差別や偏見を受けたと訴え、謝罪と損害賠償を求めている。原告508人のうち、半数は県出身者だ。女性の家族も原告に加わっている。

 

20日に愛楽園で開かれた第14回ハンセン病市民学会では家族が受けた差別、苦しみの一部が報告された。「学校に来るな」と同級生に石を投げられ、顔を泥水に漬けられた子どもや、長年連れ添った妻に親の病歴を打ち明け、原告に加わると伝えたことで離婚された男性がいた。穏やかな暮らし、愛する人、仕事の機会などを奪われた。一方、国は隔離政策の家族への影響を否定している。

 

訴訟の先に原告らが見据えるのは、差別のない社会「みるく世(ゆ)」だ。「一人一人が自分のこととして心で受け止めてほしい」。握られた女性の拳は震えていた。
(佐野真慈)

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