「戦争のない平和な世界の実現に向け力を貸してほしい」と手を合わせる与那覇徳市さんと遺族ら=6日、読谷村波平のチビチリガマ 画像を見る

 

目の前で肉親が殺し合う光景、ガマ内にこだまする「アンマー、痛いよ、苦しいよ」という叫び声。読谷村波平出身の上原進助さん(85)=米ハワイ州在住=は6日までに本紙の電話取材に対し、74年前にチビチリガマで見た光景を語った。「生き延びた人も、もうわずか。残忍な戦争の実相、平和の尊さを伝えることが私の使命だ」。牧師となった上原さんは12歳だった当時の記憶をたどった。

 

1945年4月1日、米軍は沖縄本島の西海岸から上陸。艦砲射撃で負傷した祖父と、母、幼いきょうだい3人とチビチリガマに身を潜めていた上原さんは「ここは安全、いずれ日本が勝つまでの辛抱だ」と言い聞かされ、日本の勝利を信じていた。

 

だが、米軍はその日のうちにガマへと押し寄せた。竹やりを構えて反撃を試みた住民2人が銃撃され、ガマの中は一気に緊迫感に包まれた。米軍は投降を呼び掛けたが、住民らは応じなかった。

 

翌日、武器を持っていないと示すため、上半身裸になった白人の米兵がガマに入って来た。英語と日本語で「出て来なさい。何もしない」と書かれた黄色い紙を持ち、説得しようとする米兵。しかし、住民の間では「米軍に捕まったら惨殺される」という教育が徹底されており、誰一人聞き入れなかった。

 

米兵がガマを出た後、2人の住民が布団に火を付けたことがきっかけだった。煙が充満するガマの中で、看護師だった女性が「苦しまずに死ねる」と毒薬注射を、肉親らに打ち始めた。注射された人は奥に敷かれたござへ移動し、一人、また一人と静かに息を引き取っていった。「楽に死にたい」。上原さんも注射を待つ人の列に並んだが、順番が来る直前に注射は底を突きた。「進ちゃんごめんね、これは私の分よ」。女性は上原さんにそう伝え、命を絶った。

 

その後、目の前で若い女性が「アンマー、殺して」と泣き叫び、母親がその女性を刃物で切りつけた。上原さんは真っ赤な血を浴びた。次々と互いをあやめていく人々。

 

「どうせ死ぬなら明るい所で」。母の一言でガマの外へ逃げた上原さんらは一命をとりとめ、米軍に保護された。

 

戦後、与えられた命を平和の希求に尽くそうと牧師となり、ハワイへ渡った。「間違った教育が多くの命を奪ってしまった。歴史は変えられないからこそ、そこから学ぶしかない」。上原さんはチビチリガマが平和発信の地として、多くの人の学びの場となることを願っている。(当銘千絵)

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