海上をパレードする名瀬在住沖縄県人会の漁船団=名瀬湾(奄美沖縄県人会提供) 画像を見る

 

敗戦後、米統治下に置かれた鹿児島県奄美群島は25日、1953年の日本復帰から66年を迎えた。米側が「クリスマスプレゼント」と称した施政権返還だった。祝賀に沸く群島民の中で、奄美の復帰を喜びながらも依然米軍に支配された故郷を思う人々がいた。奄美に戦前移住した沖縄出身者らだ。両親が糸満市出身の上原照之さん(84)=奄美市名瀬=は「沖縄も早く復帰できるよう願った」と振り返る。上原さんは沖縄への愛着を胸に、両地域の世代を超えた結び付きを願う。

 

上原さんの父慶三さん、母カメさんは昭和の初め、喜界島に渡った。喜界島で生まれた上原さんは、親族で追い込み網漁をする「上原組」の一員として15~16歳から漁に出た。両親と糸満の親戚を訪ねたことが度々あり、沖縄は身近だった。

 

奄美では51年2月、泉芳朗を議長に奄美大島日本復帰協議会が発足。各市町村でも支部が結成され、復帰を求めるうねりは政党色を排した民族運動として群島全体へ波及していった。53年12月の奄美復帰時、上原さんは18歳。生活に追われ運動に積極的に携わったわけではなかったが「とうとう本土に復帰したとほっとした」。一方で「沖縄も早く復帰できるといいのに」と感じていた。「沖縄を懐かしがっていた父母こそ、そう願っていた」

 

上原照之さん(84)=奄美市名瀬=は20歳で糸満出身の文子さんと結婚直後、単身那覇に渡った。夜間学校で貿易を学び、日中は水道業で働いた。将来は「陸の仕事」の卸業をしたかった。

 

しかし1年足らずでパスポートの期限が切れて奄美に帰ることに。「同じ沖縄人でありながら沖縄に住めない。なぜ帰らねばならないのか」。国境の壁を感じ、複雑な気持ちだった。喜界島に戻った上原さんは2~3年後に名瀬に移り、後に海産物をはじめとする総合卸商の会社を興した。

 

72年に沖縄が復帰すると、当時の名瀬在住沖縄県人会が中心となって祝賀会を開き陸・海上をパレードした。会員の親族も沖縄から駆け付け、伊是名の棒踊りが披露された。「これで沖縄と自由に行き来できると、感慨もひとしおだった」と上原さん。奄美の沖縄出身者にとって、祖国復帰を実感した瞬間だった。

 

長男が会社を継いだ今も毎朝5時に魚市場のセリに立つ上原さん。食文化が共通する沖縄とは魚の取り引きが多い。「沖縄は親族が住み門中墓もある懐かしい地。歴史的に奄美との縁は深い。沖縄との関係を、子や孫にも引き継いでほしい」と願っている。
(岩切美穂)

 

<用語>奄美の沖縄県出身者
奄美沖縄県人会(前川順英会長、約120世帯)の60周年記念誌や市川英雄著「糸満漁業の展開構造」によると、奄美には大正初期から昭和初期にかけて沖縄出身者が多数渡ったとみられる。名瀬には那覇や首里の出身者や酒造業者、商人が多く、後に漁民が増えた。糸満漁民は喜界島や徳之島、沖永良部島などに小集落をつくったが敗戦や復帰を機に、名瀬などへの移動が進んだという。

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