読むだけでなく、78歳からは投書の楽しみも見つけた。「誰の投稿が載っているか真っ先に確認する」と笑顔で語る宮平享祐さん=2日、宜野湾市宜野湾の自宅 画像を見る

 

文章を書くのが苦手で、家族でさえ「はがき1枚書くのも見たことがなかった」という元英語教員・宮平享祐さん(84)=宜野湾市=は、78歳の頃に初めて新聞に意見文を投稿した。2014年、名護市辺野古の状況に「我慢の限界」と思いをつづった。知人から共感の声が寄せられ「感激して数日間、脳裏を離れなかった」。誰かに伝えることの大切さを知り、今も投稿に熱中する日々を過ごす。

 

那覇市久茂地に生まれ、小学2年時だった1944年に10・10空襲で家が焼失した。翌年には地上戦に巻き込まれ、逃げた南部地域で「死体の上を歩きさまよって、九死に一生を得た」。戦後は軍雇用員として20代を過ごし、30歳から中学英語教員を務めた。28年間教壇に立ったが「通信簿を書くのさえも苦手だった」。仕事以外で何かを書く気持ちは湧かなかった。

 

転機は14年8月、政府が辺野古の海でボーリング調査を実施する様子を報じたニュースがきっかけだった。県民の反対の声に耳を傾けず、辺野古の基地建設を強行する政府の姿勢に怒りが込み上げた。米軍キャンプ・シュワブのゲート前で約3600人が参加した県民集会に足を運び「新聞で知ってはいたが、辺野古まで来てみると怒りが収まらなくなった」。胸に抱く気持ちを書き、新聞社へ原稿を送った。

 

自宅は普天間飛行場の近くで、離着陸を繰り返す米軍機の騒音が響き渡る。政府は辺野古への移設を進めるが「基地の苦しみを他の地域に味わわせたくない。普天間飛行場は無条件で返還してほしい」と願う。沖縄戦の体験者として「戦争を体験していない人にも、沖縄の歴史を知ってほしい」との思いもあり、投稿に熱が入る。

 

普段は他人の投稿にも目を通す。「投稿欄は他の人の考えを知ることができる。意見の違いを見て、気付きがある」と語る。基地問題以外にも、沖縄芝居や芸能のこともテーマに取り上げたいと考えている。「日常生活の軟らかい内容も書きたいね」と目を細めた。 (大橋弘基)

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