「株式会社 誠もち店」代表取締役の比嘉誠さん。持っているのは紅イモ、タコスチーズ、もずくのあんかけ、ラフテー、もとぶ牛を餅で包んだ「沖縄のまる焼き」 画像を見る

祖母の時代から続く餅屋稼業 目標は全国展開

 

誠もち店(本部町山川)の代表取締役・比嘉誠さん(42)は餅屋で育ち、子どもの頃から餅作りに携わっていた。祖母が始めた商売を父が継いで「比嘉もち店」とし、その後のれん分けという形で比嘉さんが「誠もち店」をスタート。20代で30人の従業員を雇うまでになり、急成長を遂げた裏で悩むこともあった。紆余(うよ)曲折を経て、2012年には米粉を使った衣に、もとぶ牛や紅イモなどを詰めた「沖縄のまる焼き」を開発。全国おやつランキングで5位となる。コロナ禍でも知恵を絞り、業績を伸ばす比嘉さんに話を聞いた。

 

誠もち店の始まりは1960年にさかのぼる。比嘉誠さんの祖母は、近所の人から頼まれ行事用の餅を作っていた。当時は家庭で作ることが多く、共働きで時間がないという人のために作っていた餅が、近所では「おいしい」と評判になった。祖母は事故で片足を失くした夫の世話をしながら餅を作り、そのうち材料費や手間賃をもらうようになり商売につなげた。

 

がむしゃらに働く

 

比嘉さんは高校卒業後、飲料関係の会社へ就職したが過労で倒れ半年で退職。いくつかアルバイトを経て父の店を手伝うようになる。

 

「お盆の時季に、おやじに『集金してこい』と言われて出掛けたら、行く先々で現金をどばってもらうんですよ。これすごいもうかる仕事じゃん! と思いました。経費のこととか何も分からないで、ただ目の前に現金がいっぱいあったから単純にもうかるお餅屋さんなんだと思って」と笑う。

 

比嘉さんは稼ぐため父の店を継ぐつもりで「餅屋やりたい」と告げると、「自分でやりなさい」と言われ、母方の実家を間借りして一から店を始めることにした。

 

「そこで5年ぐらいやったかな。いい勉強になりました。昔から行事があるたびに身内が集まって餅作りをしていたので、母方の祖父母も即戦力として手伝ってくれました」

 

そのころ、両親が離婚。21歳で結婚した比嘉さんも、2人目の子どもが生まれて半年後に離婚した。まだ幼い年子のきょうだいを引き取って子育てしながら、がむしゃらに働き2人の妹を専門学校へ進学させるための学費も賄ったという。

 

営業に力を入れ販路を拡大し、会社は急成長。27歳の頃には家や工場を建て周囲に「やり手だよね」と言われるまでになるが、その一方で「従業員を大事にせず、調子に乗っていた」と振り返る。従業員も減り、どうしたらいいのか悩んでいると、商品開発等でお世話になった専門家2人に勧められ「盛和塾」という経営に対する考え方や人間形成などを学ぶ場に出合い、立て直すことができた。

 

農家さんたちに感謝

 

現在、本部町山川にある誠もち店の「美ら海工房」では、ヒヌカン(火の神)に供える「うちゃぬく」や「あんもち」、「沖縄のまる焼き」(以下、まる焼き)などを製造している。まる焼きは、本部町商工会青年部の先輩たちとのたわいもない会話から生まれた商品だ。

 

「どうしたら普段から食べられる餅を作れるかな、と酒を飲みながら話したんです。そしたら先輩が目の前にあったゴーヤーチャンプルーとか指差して『こんなのも入れてみたらいいさ』と言って盛り上がった。翌日考えたら『面白いかもしれない。食べさせたいなら普段から食べているものを入れたらいい、なるほど』と思い商工会の指導員に相談しました」

 

その後、県から補助金をもらうなどトントン拍子に事が進み、商品化。全国おやつランキングで5位となり、各地の物産展にも参加した。県内では年間40本の祭りに出店、まる焼きは主力商品になった。昨年はコロナの影響で祭りが中止になったが、オンラインショップを立ち上げたところ反応が良く、多くの注文を受けた。

 

今後、「まる焼きで全国展開をしたい」という比嘉さん。4月には岩手県で開催される各地の餅料理を集めた「全国もちフェスティバル」で「グランプリを取りたい」と意欲を見せ、さらにこう続けた。

 

「僕たちの仕事は農家さんたちがいないとできません。米や芋、肉がないと作れない。だから、そういう人たちへの感謝を忘れてはいけないと思っています。本部っていいとこだよね、沖縄っていいよね、と言われるような通信販売もしていきたいので何かしら必ずシーブン(おまけ)も付けます。元気を届けるぐらいの気持ちを込めて」
(崎山裕子)

 

(2021年2月25日付 週刊レキオ掲載)

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