’75年、巨人初の通訳となった田沼一郎氏は、31年間務め上げ、外国人選手70人以上を担当した。通訳の仕事は、球場内だけと思われがちだがそうではない。無理難題を押しつけられ、夜中に呼び出されることもしばしば。さらには、選手の家族の相談や身の回りの世話など、まさに24時間勤務状態だ。

 

田沼さんは’89年8月、名古屋球場で倒れた。脳動脈瘤が見つかり、頭蓋骨を半分除去する第手術は16時間に及んだのだ。その後リハビリを経て、奇跡の復活。’05年には30年の通訳人生を評価され、連盟表彰も受けた。そんな田沼さんが、原辰徳監督(54)について語ってくれた。

 

「エリートだから苦労を知らない。格好つけすぎというか、つねに背伸びしている印象だった。現役時代はなにかと中畑清と比較されたけど、彼は叩き上げで泥くさい男。人望もあった。タツの派閥?東海大ラインはあったけど、派閥なんてない。誰も入りませんよ(笑)」

 

そのころ巨人には江川卓、桑田真澄、落合博満と、世間では“変わり者”と呼ばれた選手が大勢いたが……。

 

「でも彼らは自分のセオリー、あるいは理論というものをしっかり持っていました。だから周りもついていった。でもタツには何もないから、選手もついて行かないわけです。結局、人望のなさは監督になっても変わっていない。なにか、軽さを感じさせてしまうわけです」

 

田沼氏の“原不信”を決定づけたのは、’03年の第一期・原政権が終焉を迎えるときだったという。この年のオフ、原監督は川相昌弘とヘッドコーチ就任の確約をして、現役を辞めさせていた。ところが、自分の主張を押してフロントと揉め、監督を辞めてしまったのだ。

 

「かわいそうなのは、残された川相ですよ。引退宣言までさせられながら、一軍ヘッドの話は立ち消え。それで中日の監督だった落合に拾われる形で、移籍したわけです(形式上は入団テストを受けて入団)。それが決定的でした。ナインのタツに対する不信感が強まったのは。現在、巨人は首位にいますが、安泰だとは思っていない。長いシーズン、どこかで歯車が狂うときがときがくる。そういうときこそ監督に求められるものが大きいけど、タツに束ねる力はないですからね」

 

(週刊FLASH 7月23・30日号)