「本当に夢のようです。自分のプレーをして攻めていたので、たくましく成長したなと思いました」
10月9日に卓球女子のワールドカップ決勝が米国で行われ、平野美宇(16)が日本人選手として初めて優勝した。この快挙を受け、本誌が母の真理子さん(46)にインタビューすると、開口一番こう言って目を細めた。
実は、リオ五輪の代表落選でとても落ち込んでいたという平野。そんな彼女が挫折を乗り越えられたのには、母の教えがあった――。
山梨県甲府市で暮らす真理子さんは元小学校教師で、夫は内科の勤務医。平野は“卓球3人姉妹”の長女で、両親はともに大学卓球部で活躍した“卓球一家”だ。
「私が卓球を教える私塾を始めたのは、美宇が3歳のときでした。『美宇もやる』と言い出して。サーブが打てたら試合ができると思い、試しにやらせてみたら簡単に打てました。4歳になると、もう試合ができるように」
真理子さんがいちばん大変だったのは、5歳からの2年間だったという。
「美宇は5歳から大きな大会に出始めたんですが、負けそうになると試合中に泣き出すんです。負けるのがイヤで、胃液まで吐くほど大泣きするんですよ。試合中に泣いて勝てるわけがないですから、私は『試合中に泣いたらダメ!練習通りにやって負けたら、恥じゃない。負けるのがイヤで泣くほうが恥ずかしいんだよ』と言い聞かせました」
幼い頃“泣き虫愛ちゃん”として有名になった、福原愛(27)。“愛ちゃん二世”と呼ばれるようになった平野だが、母からは「泣くな!」と“泣き虫禁止令”が――。
「でも、なかなか泣き癖は治らなくて、同じことを何回も言い続けていました。小学校に入ってすぐ全国大会に優勝したんですが、劣勢になっても泣きませんでした。このときから美宇は変わりましたね」
7歳で泣き虫を卒業した平野は、将来の夢を聞かれ「五輪で金メダル」と答えている。目標が明確になって以来、卓球の成績もグングン上がっていった。ついには県内に練習相手がいなくなり、山梨から合宿に参加するため大阪まで行くようになる。
「小学3~4年の頃には、夏休みに1週間ほど、大阪のミキハウスに泊まりがけで参加していました。荷造りも『自分でやりなさい』と言ったら、ちゃんと1人でできるように。“小学生がトランクひとつで大阪まで行っている”と不憫に思う人もいましたが、私は娘を早く自立させたかったんです。そうでなければ、一人前の選手にはなれませんから」
「五輪で金メダル」の夢をかなえるためには、早い独り立ちが必須だと、真理子さんは考えたのだ。
「『合宿中も洗濯物は自分でやるんだよ』と言いましたし、家にいるときは味噌汁用のお味噌の仕込みもやらせました。小学校卒業の年に夫と相談して、東京にあるオリンピック選手を育成するエリートアカデミーに入れて、寮生活をさせる決断をしました。五輪に出るためには、“これしかない”と。実家から離れて親子が別々に暮らすことに、ためらいもありましたが、結果的にはよかったと思っています。五輪落選で眼の色が変わって、一段と卓球に打ち込めたのも幼いころから続けてきた“自立”教育の賜物だと思っています」