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関西を旅した時、幼馴染みが卒業生だったことから、神戸女学院を訪ねる機会に恵まれました。神戸女学院は建築家メレル・ヴォーリズの代表作品のひとつ。卒業生の誇りである美しいキャンパスを、ぜひ見たいとかねがね思っていました。

 

明治の初期、アメリカ人婦人宣教師によって神戸の山本通りに開校した神戸女学院(当時・神戸ホーム)が、現在の西宮市岡田山に移転したのは1933年(昭和8)のこと。約4万坪の敷地に中・高・大学関係の17棟の建造物が建てられ、その多くが現存し、昨年12棟が重要文化財に指定されました。

実は、私の母校である東洋英和も、ヴォーリズ建築事務所によって女学院と同じ年に竣工されています。しかし、残念ながらこちらは1993年に取り壊され、建て替えられました。若い日に心に刻まれた印象は年を経るにつれ色濃くなるのに、その理由を確かめたいと思っても、懐かしい学舎はもうありません。母校と女学院は建築上、言わば姉妹のような関係。今回の訪問は、私にとって、ヴォーリズが学校建築に込めた趣意や創意を改めて知るためでもありました

 

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雑木林から見た音楽館の横顔

 

阪急電鉄今津線の門戸厄神駅から住宅街をしばらく行くと、端正なアーチの正門に辿り着きます。緩やかなスロープを辿り、最初に見えてくるのは大学の音楽館(音楽科の校舎)。ここからさらに野趣味のある雑木林の中の坂道を上ります。樹々の間から垣間見えた音楽館の横顔は、やはりどことなく見覚えがあり、初めて会った気がしません。

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丘の上に構える重厚な玄関

 

しかし、丘上に着き、文学館の重厚な扉を抜けて、中庭に出た瞬間、思わず目を見張りました。

うっそうとした雑木林から一転、澄み渡る空の下、視界いっぱいに広がる芝生が、中央に噴水を配して十字の小径で区切られています。この光降り注ぐ中庭を、文学館、理学館、図書館、総務館の大学の主要な4つの建物がとり囲んでいました。とり囲んでいたというよりも、縁取っていた、という表現のほうがふさわしいかもしれません。

 

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中庭から見た文学館

 

4棟はいずれもクリーム地の石壁にバーガンディ・カラーの瓦の屋根を持つ2階建てで、女の園らしい華やかさ、可愛らしさを備えて、関西の山々のようにおっとりと連なっていました。

この日はお休みだったため、学生の姿はありませんでしたが、かつてはこの中庭を、長いドレスに髪をポンパドールに結ったアメリカ人婦人宣教師や、神戸の豪商の令嬢、大阪船場の「いとさん」や「こいさん」が行き交ったのでしょうか。モダンな洋装で、ある人は日傘を差し、ある人はおしゃべりに夢中になり。芝生に座って本を読む人もいたかもしれません。新印象派スーラの点描画のような、優しい色彩の世界が思い浮かんできました。

こうした明るく、解放的な構成は東京の六本木にある東洋英和には見られませんでした。ふたつは姉妹であっても性質は対照的であったようです。めまぐるしく変容する都会の真中では、学校建築の場合、外界を遮断したシェルターとしての役割が必要であり、限られた敷地の中で必然的に密度の高い硬質な建物になるのでしょうが、一方、広々とした岡田山の神戸女学院では、自然に抱かれるように建物が点在し、環境と建築の融合が計られています。ヴォーリズは自然をこよなく愛した人としても知られています。夏は軽井沢に逗留し、教会や数々の別荘の設計を手がけ、かの地で自然を讃美する多くの詩をものしています。

自然との調和、そこに集う人々の和。それこそヴォーリズが描いていたデッサンなのかもしれません。

 

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さまざまな色の瓦を組み合わせたモザイクが、味わいのあるバーガンディ・カラーを作っている。

 

また、神戸女学院大学はヴォーリズの最愛の妻、一柳満喜子の母校でもありました。満喜子は1884年(明治17)年に華族の娘として生まれ、神戸女学院大の音楽部を卒業後、アメリカにも留学し、当時としては稀少な才媛でした。華族の国際結婚が認められなかった時代、身分を捨ててヴォーリズとの結婚を選ぶのですが、彼女の背中を強く押したのは、兄の義母であると同時に、ヴォーリズの後援者でもあった女性実業家の広岡浅子だったと言われています。

1919年(大正8)に浅子が故人となった後も、広岡家との深い繋がりは、ヴォーリズの強力な後ろ盾であったはずです。

 

特別な愛情と信頼関係の上に、アメリカの教会からの支援、そして自然豊かな広大な校地を得て、理想の学び舎———岡田山神戸女学院の構想は進められたのでしょう。

ここにヴォーリズの精神、発想がのびやかに呼吸しているのを感じました。

 

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