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去る6月10日、ミャンマーの人権運動家のアウンサンスーチーさんは、中国共産党の招待で中国を訪問しました。ご存じのように、スーチーさんはノーベル平和賞の受賞者であり、ミャンマー民主化運動の象徴でもあります。ではなぜ人権問題を抱えている中国政府が人権運動の象徴でもあるスーチーさんを招き、彼女はそれに応じたのか。今回はこの問題を考えたいと思います。

 

まずスーチーさんの経歴をみてみましょう。彼女は’45年、ミャンマーで生まれました。父親はミャンマーの建国や建軍の父とされる英雄・アウンサン将軍。母親はもともと看護師でしたが、後に大使としてインドに赴任。当時15歳だったスーチーさんも母親に連れられ、インドに移り住むことになります。そこでスーチーさんは、英国植民地からインド独立を導いたガンジーの非暴力主義思想の影響を受けたといわれています。その後は英国の名門大学・オックスフォード大学で学び、卒業後はニューヨークに本部がある国連事務局でスタッフとして働くことになりました。

 

このようにスーチーさんは幼少のころから文化が異なる地での豊富な生活経験を持ち、そこで自己の世界観や価値観を形成してきました。そのため民主主義の根幹である自由や、その自由を支える多様性に対する意識が高かったのでしょう。彼女は祖国ミャンマーの民主主義実現に生涯を捧げることを決意します。そして’90年5月、スーチーさん率いる国民民主連盟(NLD)は総選挙で勝利を収めました。しかし政権が移譲されることはなく、正統性を欠いた軍政支配は続くことに。彼女は激しい弾圧を受け、15年間にわたる自宅軟禁を余儀なくされたのです。

 

興味深いことに、このミャンマー軍政支配を経済・政治・軍事面で支えてきたのが中国政府であったということです。そういう意味で、スーチーさんの中国訪問に対して疑問の声が上がっているのも不思議ではないといえます。

 

ではなぜ、スーチーさんはこのタイミングで中国訪問を決行したのでしょうか。背景には、ミャンマーのテイン・セイン政権と中国政府の関係がこじれていることが挙げられます。テイン・セイン政権は’11年3月、23年ぶりの「民政移管」で誕生した政権で、発足直後から大胆な改革に乗り出しました。その目玉の一つに「国際関係の改革」がありました。具体的には欧米諸国との関係改善を推進するもので、それが結果的に中国寄りの利権配分からのシフトをもたらしたのです。

 

当然ながらこれを中国政府は嫌がりました。そこで中国政府は、今秋に予定されるミャンマー総選挙で勝利が有力視される野党・国民民主連盟(NLD)の党首であるスーチーさんに歩み寄ったのです。いっぽうでスーチーさん側としては、ミャンマーへの最大投資国である中国との友好を深めることで、国内外にその力をアピールしたい思惑があったのでしょう。つまり人権問題で対立関係にあった両者の関係は、両者の政治的な利害の一致によって一気に融和に向かったわけです。

 

ただこれはスーチーさんにとって諸刃の剣になりうると思います。今回の中国訪問でスーチーさんは、中国政府が抱える人権問題に対する発言を控えています。それに今秋の総選挙に備え、ミャンマー政府によるイスラム少数民族・ロヒンギャへの弾圧についても沈黙を守っています。これは見方によれば、人権擁護のためなら一切の妥協をしなかった人権運動家から、実利のためなら妥協もいとわない政治家に変身しつつあるということ。これこそが、彼女を長年支援してきた人たちを複雑な心境にさせるのだと思います。


ジョン・キム 吉本ばなな 「ジョンとばななの幸せって何ですか」(光文社刊・本体1,000円+税)

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吉本ばなな

1964年東京生まれ。’87年『キッチン』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。’88年『ムーンライト・シャドウ』で泉鏡花文学賞、’89年『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で芸術選奨文部大臣新人賞、同年『TUGUMI』で山本周五郎賞、’95年『アムリタ』で紫式部文学賞、’00年『不倫と南米』でドゥマゴ文学賞をそれぞれ受賞。海外でも多くの賞を受賞し、作品は30カ国以上で翻訳・出版されている。近著に『鳥たち』(集英社刊)、『ふなふな船橋』(朝日新聞出版社刊)など。