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7月某日 北イタリア・パドヴァ

人間というのは古代から、自分たちの存在を誇示するために、無理をしてでも大きくて立派な建造物を造らないと気が済まない性質のある生き物。コストと労力と知恵が費やされた壮大な建物を建てることで、依頼主は自分たちが持っている力の偉大さを示そうとするわけです。

建物というのはただ土を盛って大きな山を作るのとはわけが違います。そこに優れた構造や技術を用いることで更に人々を驚かせ、まるで神懸かりの技だと思わせることが肝心なのです。

ピラミッドやギリシャ神殿に代表されるように、古の巨大建造物の多くは神が司る場所であるわけですから、人技とは思えない壮麗さと迫力は絶対必至の条件と言えなくもありませんが、コロセウムのような市民のために作られた競技場は、歴代ローマ皇帝の権力の象徴であり、ルネッサンスから近世に建てられたヨーロッパ各地の宮殿やお城なども、やはりそれらは実直に、持ち主や領地の力を表すのを目的に作られたものでした。

バチカンのサンピエトロ寺院やフィレンツェの大聖堂なども、一見、神の司る場所としての壮大さや壮麗さがコンセプトになっていても、カトリック教会や圧倒的な経済力を持ったパトロン、そして自治体のパワーの誇示もセットで感じさせられるという仕組みになっています。

そういった建造物は何十世紀経っても、当時と変わらぬ迫力を人々に伝え続け、観光客は入場料や見物料を払って見に来るわけです。2520億円も掛けて作られる新国立競技場が、もし何千年後まで残り続けるのであれば、年間3700万ユーロを稼ぐローマのコロセウムのように、未来の収益を見込めるのかもしれません。

ひょっとすると最初からそんな無謀な皮算用も念頭においた上での判断だったのでしょうか? さもなければ2520億円なんていうとんでもない金額を(しかもまだその確保すら確実なものではないのに)、建造物一つのために投じられるなんてとても信じられませんから。

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先日、テレビの取材のためにミラノの万博を訪れました。世界中の国々が自信とプライドを持って造った立派なパビリオンがずらりと並んでいる中で、なぜかオランダ館が建っているべき場所には、ただの空間と数台の食べ物を売るミニバンやテントがあるだけでした。これはどういうことなのかと担当者に聞いてみると、飽食や未来の食料難をテーマにしたこの万博で、閉幕後には取り壊されるだけの建造物に対して莫大な費用を投じるのは、納得できなかったのだそうです。

そんなシンプルで肩の力が抜けた、建物のない〝オランダ館〟では、周辺のパビリオン巡りですっかりくたびれた年配者や子供たちがベンチに座ってリラックスしていたり、若者たちが気軽に屋台のビールを飲んだりしている姿が目に入りました。「お金がなくてパビリオンを建てられなかったんだな」「手抜きしているのじゃないか」なんて思う人は一人もいないでしょう。感じられるのは彼らの虚勢を排除した「ゆとりのある姿勢」と、進化した精神性を仄めかす「インテリジェンス」であって、正直、どの国の立派で壮麗なパビリオンよりも、実質的なクオリティとしては優位に感じられました。

確かに手の込んだ経済国のパビリオンは、展示や演出も最先端テクノロジーが駆使されていたり、参加型パフォーマンスがあったりで、体験した人々は文句なしの満足感を約束されるでしょう。ただ、私のようにひねくれた人間からして見ると、そういったコストのかかった完成度の高い建物にも演出にはどこか尋常ではない不自然さが感じられてしまって、見ていて落ち着かないし、嘘くささを拭いきれません。

〝人間のワザって凄い……神懸かりだ……〟と人々を圧倒させたり感動させたりしたいという人間の性質は、巨大建造物を造って力を誇示するモチベーションにもなってはいるのでしょうが、ひとつの建物が出来上がるその背景に、様々な人々の不透明なネゴシエーションが絡まり合っているのも常です。

〝オランダ館〟にそんな気配が感じられなかったのが、居心地の良さの一つだったと言えるかもしれません。まさに研ぎ澄まされた先進国のあり方を実感できたような気持ちがしました。私と話をした担当責任者のおじさんも「みんなが心の底からリラックスして楽しむことも祭典の大事な要素です。訪れる人たちも、そして我々のような開催に携わった関係者自身も含めて」と顔中で笑っていましたが、確かにイベントでも漫画でも、作った人間がどこまでその作品に対しての自信や責任、そして情熱を持って人々にアプローチできるのか、というのはとても肝心なことだと思います。

2520億円、そして建造後のメンテナンス費用……。古代ローマ皇帝であったら、すべてをローマ帝国の名の下に引き受けた事業となるでしょうが、新国立競技場に関してはプレゼンも通ったし、時間もないし、誰がこの企画の責任を統括するのかもわからないけど、とにかく何となく着工が決まってしまった、という曖昧な顛末になっています。国民はその結果を突きつけられ、ただ漠然とした不安と不満を増長させるしかない状況に置かれています。

日本に限ったことではありませんが、先ほどのミラノ万博の〝オランダ館〟の例にしてみても、本当に自分たちの国にそれなりの誇りがあるのなら、建物の巨大さやそのインパクトで世界を圧巻させようという、プリミティブな発想そのものを、冷静かつ客観的に受け止められるはずなのです。

というか、何よりも先ずオリンピックというのは、戦争をやめるようにとアポロンの啓示を受けて始まったとされる、人間の運動能力を謳歌するための祭典であって、開催国や主催者の力の大きさを見せつけるためのイベントではなかったはずなのです。

紀元前8世紀と言われる第1回目のオリンピックを企画した人が、今回の2520億円の件も含めて現代の状況を知ったら、さぞかしびっくり仰天することでしょう。