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2月某日 東京

 

先日の雪の日、実はちょっとしたご縁がありまして、氷川きよしさんのコンサートへ行ってまいりました。周囲の人にこのことを報告すると「え!? 海外暮らしのヤマザキさんが、演歌歌手の氷川きよしさんをご存知だったんですか!?」と驚かれますが、息子が小さかった頃に日本で『きよしのズンドコ節』を熱唱する姿をテレビで拝見して以来「尋常じゃないカリスマ性とエネルギーのある青年」と感じ続けてきた存在でした。

 

私はクラシック音楽を生業とする母に育てられ、しかも彼女はまったく歌謡曲というジャンルを好意的に捉えていません。しかし、そんな彼女ですら年末の紅白歌合戦で氷川さんが登場すると、その視線の先は彼に向けられ「歌うまいわねえ」などと絶讃します。やはり私と同じく、氷川さんから放たれている吸引力が気になるのに違いありません。ちなみに母は美空ひばりさんだけは例外に“凄い人”として評価していますが、氷川きよしオーラもおそらくそのような、彼女なりの審美眼に叶ったのでしょう。

 

容姿端麗で抜群の歌唱力の持ち主であることに加え、彼のエンターテイナーとしてのグレードの高さはテレビ越しでも十分視聴者に伝わります。コンサートのお誘いを受けた日には断る理由などありません。本来入っていた仕事の予定をずらし、私は小雪舞う夕刻の中野サンプラザホールへと急ぎました。

 

エントランスは恐らくきよしファンのエネルギッシュさが漲る派手なおばさまたちで溢れかえり、珊瑚の産卵のように一斉に彼女たちから放出される熱気で多分エラいことになっているはず、というのが、会場へ向うまでの私の予測でした。

 

しかし会場に到着し、ホールで目に入ってきた女性たちは、私が思っていたよりもずっと地味で控えめです。想像していたような、全身できよし愛を表現する派手な装いに身を包んでいるような人は、ざっと見回してみてもほんの数人くらいしか目につきません。

 

見た目も煌びやかで、興奮を抑えられずはしゃぎまくる女性ファンが観客の大多数、というイメージは完全に覆されました。確かに良く見れば頭に「氷川きよし」と印刷された紅白の帽子を被っていたり、きよし法被を羽織っている方もいらっしゃいましたが、そんな方ですら行動は控えめで、大人の落ち着きが感じられるのです。それがまず私の氷川きよしコンサート体験における最初の感動でした。

 

ようやく自分の場所に着席してぐるりと周りを見回すと、みなさん魔法少女スティックみたいな綺麗な色のペンライトを握っています。中には色とりどりの数本を抱え切れない花束のように持っている方もいれば、ペンライトの周りをレースなど素敵なデコレーションで彩ったコサージュみたいなものを持っている方もいらっしゃいます。みなさんご自身の装いは地味目でも、持参しているマイペンライトの飾り付けには、どうやらオリジナルの“氷川きよし愛”が強く込められているようです。

 

周辺のみなさんの手元に気を奪われていると、隣に座っていたきよしさんのご友人女性から「ほら、マリさんの分もありますよ♪」と、先端がハートになっている水色のペンライトを手渡されました。何度も通うようになれば、きっと私もこのペンライトに自分なりの飾り付けをほどこすようになるのだろうな、などという思いを巡らせていると、いよいよ正面のステージに氷川きよしさんが登場。

 

それまでおとなしめだったおばさまたちの表情が、とたんにパアッと華やぎますが、それは決して我を忘れた大はしゃぎ、というのではありません。まるで皆さんの中にある純真無垢な少女の要素がじわっと表に染み出しているような、幼気なキラキラとした眩さとでも言うのでしょうか。花で例えるのなら、春の野原に黄色いタンポポが一斉に咲き始める、そんな感じです。

 

みなさんのそのような表情の変容に再び私はあらためて驚き、それと同時に、なぜコンサートにやってくる彼女たちが、過剰に若作りをしたり派手に装っていないのか、その理由が判ったような気がしました。

 

おそらく、氷川きよしさんという存在自体が、観客である彼女たちにそんな自己主張性や不自然さを求めていないのでしょう。きよしさんは恒星のような眩しい輝きとエネルギーを会場に対して放射させながら、あんなにハンサムで才能にも恵まれているのにまったく傲りも気取りもせず、あの風通しのよい梅雨明けの青空みたいな佇まいで、会場にいる全ての方を分け隔てなく、余す事なく包み込んでいるのです。

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どんな人にもこの音楽がを届けたいという思いが込められたカセットテープ

歳を重ねることが、某か後ろめたく感じさせられがちな昨今の日本の社会。きっとコンサート会場にいた女性たちのなかにも、歳を重ねることに不安を覚えたり、ストレスを抱えた毎日を過ごしている方もいらっしゃることでしょう。

 

日本は残念ながら、どこか堂々と高齢者になれない風潮が顕著な国です。以前もこちらのエッセイに書きましたが、メディアではやたらと高齢でありながら社会で活躍して元気な方ばかりがピックアップされ、高齢者の方はそんな情報を見ながら、胸中で「なんとか自分も周りに迷惑をかけない、こんなふうに元気な高齢者にならないといけない」というプレッシャーをつのらせているはずなのです。

 

しかし、ステージ上に現れた氷川きよしさんはそんな観客が抱えているであろう重荷をスパッと払拭させ、あの抜群の歌唱力と華やかさ、そして会場にいるひとりひとりへの温かい思いやりのこもった客席との交流トークで、ありのままのみなさんを受け入れてくれるのです。

 

氷川さんは昨年40歳になられたそうですが、「自分は80歳になってもこのステージに立っていたい。その時は皆さん是非いらしてください。いらっしゃれない方も頭に三角をつけておこしください。名前を呼んで頂ければ反応します!」という、屈託のない言葉に会場中が大ウケ。誰にとっても深刻な老いを、ユーモアと希望でさらっと包み込み、観客の様子はさらにそこでまた暖かく緩みます。

 

氷川さんはコンサートの間、何度も何度も観客席に向かってお辞儀をされます。そして同じく何度も「氷川きよしは皆様に支えられてきました、皆様のおかげです」という言葉を口にされます。普段、人様(夫や子供)から感謝され慣れていない人であれば、ステージ上の眩しく美麗なスターからそんなふうに礼儀正しく感謝の態度を示されると、もうどうしていいかわからなくなってしまうものです。でも、そんな氷川さんの姿勢が一生懸命に日々を生きている彼女たちを励まし、勇気づけているのだという確かさを感じた瞬間、ぶわっと涙が溢れてきてしまいました。

 

観客が、日常生活で封じ込めてしまっているかもしれない生きる喜びを引き出してくれる氷川きよしさん。ステージと観客席の間には勿論距離はあるけれど、そこに“隔たり”はありません。彼と観客の間には家族同士でも得られない、密接で大きな包容力と思いやりにあふれたコミュニケーションが成立しているのです。

 

彼のコンサートへ足を運ぶ観客の胸中にあるのは、年に一度遠方に暮らす心優しい孫に会う感覚なのかもしれません。チケット代は孫へのお小遣いみたいなものとも言えるでしょう。とにかく高齢化が進む日本のような社会において、氷川さんのあり方はとても象徴的だと思います。

 

幕が下り、人がごった返すホールではきよしグッズ等の物販販売で賑わっていました。そこで私の目に入ってきたのは、リリースされたばかりのCDの脇に、沢山積み重ねられた昔懐かしいカセットテープと、それを購入しているお婆さんの姿でした。後で聞けば、演歌の多くは今現在もカセット版でリリースされ続けているそうですが、確かにCDプレーヤーやPCによるダウンロードという方法が使えない人にとっては、ありがたい話です。どんな環境に暮らす、どんな人にもこの音楽が届いてほしいという作り手の思いが、そこに積まれたカセットテープに込められているように見えました。

 

あらゆる角度から、エンターテインメントというプロフェッショナルのあり方をまじまじと見せつけてくれた氷川きよしさんのコンサート。私も漫画家という立場として、たとえ音楽程の影響力はなくても、読者の年齢、そして生き方や考え方を選り好むことなく、どんな人が読んでも、その人たちひとりひとりのささやかな喜びになるような、そんな作品を死ぬ迄に生み出したいものです。

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