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「真正面に岩手山、太陽が昇る東に姫神山、沈む西に八幡平から安比高原。素晴らしいでしょう?」

 

4月初旬。岩手県八幡平市にある赤い切妻屋根の自宅のバルコニーで、末盛千枝子さん(75)は眼前に広がる雄大な風景をバックに両腕を大きく広げてみせた。

 

「本当に静かで、朝まで何の物音を聞くこともなく寝ています。たまに、用事で東京に行くと物音があふれていて、よくこんなところで暮らしていたなって思うと、申し訳ないですね」

 

末盛さんは長年、出版社すえもりブックスの代表として手腕を震った絵本編集者だ。IBBY(国際児童図書評議会)の国際理事も務め、絵本は子供のものという従来の概念を覆し、子供も大人も楽しめる絵本作りに、ひたむきに取り組んできた。

 

『THE ANIMALS「どうぶつたち」』(’92年)、『橋をかける 子供時代の読書の思い出』(’98年)、『バーゼルより 子どもと本を結ぶ人たちへ』(’03年)など、美智子さまの著作を編集・出版した編集者としても知られている。

 

「初めて皇后さまにお会いしたのは、’60年代終わりごろ。勤務していた至光社の社長が世話人で『星の王子さまの会』という、当時は皇太子妃だった皇后さまを囲む読書会が行われていたんです」

 

読書会の数人のメンバーだけで、大磯在住の画家のお宅に集まるとこになり、当時20代の末盛さんは、お茶出し係として駆り出され、お目にかかったという。

 

「皇后さまは、その集まりを本当に楽しみにされていたご様子で、まるでスキップを踏みながら駆けてくる少女のように見えたものでした。出かけるときに、あまりに気持ちが急いたのでしょうか。『似たようなデザインの靴を、間違って履いたまま出てきそうになったの』と、照れくさそうに、笑いながら、お話しなさったのを覚えています」

 

この3月、末盛さんは冊子『波』での連載をまとめた著書『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』(新潮社)を発刊。そこにも美智子さまとの貴重なエピソードが、多くの章を割いて綴られていた。

 

自ら起こした出版社、すえもりブックスを畳み、父が残した八幡平の家に移住したのは6年前。すえもりブックスのオフィスは、代々木の自宅マンションの1室にあった。『橋をかける』製作当時のことを、末盛さんはこう振り返る。

 

「皇后さまも、本を作って行く過程を大変、楽しんでいらしたと思います。御所にうかがって、本作りの打ち合わせや作業をして帰ると『その後は大変楽しそうでいらした』と、後で、侍従や女官から聞いたことがあります」

 

細部にわたって、美智子さまはこだわりをみせられた。『橋をかける』は、感動を巻き起こしたIBBY世界大会での美智子さまの基調講演の講演原稿を日本語版、英訳版ともに、全文を掲載した本だ。

 

「英語版に『I can do』という言葉が出てきます。皇后さまはずっと考えていらしたのでしょう。『“I”だけをイタリックにしてください』という依頼がきました。(わたくし)ということを強調されたかったのだと思います」

 

3刷目の増刷からそれは直っているという。

 

「4刷まで、皇后さまから訂正が入りました。私も何かで誤解を受けるような状況になっては絶対にいけないと、細心の注意で臨みました。『注』は最終的に42にも及びました。直しもたくさん入って、付箋がすごい数になりました」

 

直しを受け取り、打ち合わせるために、1日に3度、御所にうかがった日もある。

 

「ようやく終わって、車でオフィスに向かう途中、携帯に皇后さまから直接、電話がかかって、追加の直しが告げられる。慌てて路肩に車を止め、メモしたこともありました」

 

美智子さまがそこまで熱を入れられたのは、末盛さんの妥協を許さない仕事ぶりを信頼されていたからだ。こうして、美智子さまと末盛さんが丁寧に、誠実に作り上げた『橋をかける』は、大きな反響を呼んだ。

 

末盛さんは、東日本大震災の約2週間後の’11年3月24日、被災地の子供たちに絵本を届け、読み聞かせるプロジェクト「3・11絵本プロジェクトいわて」を立ち上げ活動。震災から5年たった今も継続中だ。絵本プロジェクトは10年、編集の仕事も無理なくつづけるつもりだという。

 

「“自分の人生もまんざらじゃない”と思えるような高齢者向け絵本も作りたい」

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