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《(※親は子に)持てるものを無条件に注ぎ込める存在なんだ。幼い頃に親父を亡くしてるから、僕の場合のそれは、つまり母親ということになる》(FRaU 94年8月23日号)

 

娘が生まれた年にこう語っていた田原俊彦(57)は母親から受けた愛情を、娘にも精一杯注いでいた――。

 

7月31日放送の『踊る!さんま御殿!!』(日本テレビ系)には、大物芸能人の2世が集合。生島ヒロシ(67)の息子である生島勇輝(34)、真木蔵人(45)の息子でマイク眞木の孫であるNOAH(24)が即興でラップを歌い、コロッケ(58)の娘である滝川光(19)が森進一(70)のモノマネを披露するなど番組を盛り上げた。

 

田原俊彦の娘・田原可南子(24)も、父と度々共演してきた明石家さんま(63)と初対面。『我が家のちょっと変なところ』というテーマでは、父の教育方針についてこう語った。

 

「10代のころはすごく厳しくて。いろいろなことに。友だちと遊んでいて、夜が遅くなると、10時とか11時でも『なにしてたんだ』と携帯を取り上げられたり、成績が悪かったら、また携帯を取り上げられたり。(携帯を)隠されるんですけど、20歳になった瞬間に、全部のルールが取っ払われて。『ここから全部、自己責任です』となって。『お金も、何もかもやりませんけど、もうここからは何も言わないので、すべてのことは自分の責任で生きていってください』といきなりパッと放たれて。えっ……みたいな」

 

実は昨年、田原俊彦が本誌『女性自身』の“シリーズ人間”に登場したときにこう話していた。

 

《長女は、芸能界に入ったといってもアルバイトみたいな立ち位置。僕は全然、タッチしないし、放任です。彼女も、父親には触れない。距離感はしっかり保っています。2世だからっていうの、僕はイヤなんです。成人したら、何をしてもあなたの責任。あなたの人生ですから、責任持って、歩んでくださいと、それは話をしたのかな》(女性自身 2017年7月4日号)

 

取材で聞かれれば、娘の話を嫌がることなく語る。いっぽうで、ファンの前で自ら家族のことを喋ることはない。

 

私は20年間田原俊彦のコンサートに通い続けているが、彼がステージで家族のことを話した記憶はない。ファンは時間を作って、大枚をはたいて“憧れのスター・田原俊彦”を観に来ている。そのことを理解して、生活の匂いを感じさせないように振る舞っているのだと思う。

 

田原俊彦は小学1年生の時に教師を勤めていた父親を病気で亡くした。それから、母・千代子は女手ひとつで、娘3人と息子1人を育てなければならなかった。そんな背中を見て育った息子は、母のことをこう感じていた。

 

《今になって思うと、何回となく人生を投げ出したくなったことだろうと思う。親がどうであろうと、ひとりの人格を決めるのは結局その人自身だと思うけど、少なくとも僕の基本をつくってくれたのはそんなお袋だったんだ》(FRaU 94年8月23日号)

 

ハングリー精神の強い田原は高校1年の夏、山梨から東京のジャニーズ事務所に直接自らを売り込みに行き、ジャニー喜多川氏に翌週からのレッスン参加を認められる。

 

3年間の下積みを経て、1979年に『金八先生』の生徒役に抜擢され、翌80年に『哀愁でいと』で歌手デビュー。当時の人気歌番組『ザ・ベストテン』で3週連続1位に輝き、一気にスターダムへと伸し上がった。その後も、『ハッとして!Good』などヒット曲を連発した彼は、まず親孝行に徹した。父親の墓石を作り、母親に家をプレゼントしたのだ。

 

母親に愛情を持って育てられた田原は、娘にも存分の愛情を注いだ。可南子が1歳のころ、田原はこう話していた。

 

《子育てって3才までが大事。三つ子の魂百までって言うよね。だから、今、いい時間を共に過ごすってことは大切にしたい。子供が生まれてから10回のうち9回はぼくがお風呂に入れているんですよ。『もうすぐカナちゃんはお姉さんになるんだね』とか話しながら》(95年11月号 マフィン)

 

田原千代子から俊彦へ、俊彦から可南子へと受け継がれた愛情は果てしないものだった。父が優しさと厳しさを持って接した娘は、自分と同じ芸能界を仕事として選んだ。その場所で田原可南子も、大輪の花を咲かせることができるか。

 

文・岡野誠  書籍『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)発売中

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