《とにかく食べさせることに気を遣いました。おにぎりなら食べやすいというので、なかにイクラや肉のつくだにをいれたおにぎりをつくったり、牛肉や野菜を一日煮込んでスープをつくったり……。でも、大変なのは夜でした。すごい寝汗をかくんです。シーツやタオルケットまで濡れるので、明け方までに3~4回、下着とシーツをとりかえなければなりませんでした》(『女性セブン』’74年2月27日号)

 

このときの俊子さんは、半世紀近くにわたって、夫の幾度もの大病と闘っていくことになるとは、想像もしていなかっただろう。

 

銀幕スターとしての矜持も邪魔したのだろうか、渡さんは妻の献身に対して、言葉で感謝の気持ちを表すことは苦手だったようだ。取材のときも俊子さんに関して語るときは、ややそっけなかった。

 

「(ご苦労さん、ありがとうなんて)そんなこと言えないですよねぇ。言わなくてもわかってくれているでしょう」 「(女房は)丈夫だけがとりえでねぇ」

 

こんな調子だった。だが前出の映画関係者が続ける。

 

「口には出さなくても、渡さんは体調を崩すたびに、自分の睡眠を削って看病してくれる俊子さんに感謝していたでしょうし、“一人娘”をくれた俊子さんのご両親のことも大切にしていました。

 

渡さんが亡くなるまで住んでいたのは東京都内の一軒家ですが、ここにはもともと俊子さんの実家があり、いわば“マスオさん”として同居生活を送っていたのです。俊子さんのお母さんが’93年に亡くなったときには、渡さんが喪主を務めています。通夜や葬儀には、宍戸錠、富司純子ら数百人の芸能人や関係者らが弔問に訪れるという盛大なものでした」

 

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