[E:note]自分には歌がある、という思いが「思春期のころの支え」になったということでしたが。
普天間:多感なころって、「自分なんかいてもいなくてもいいんじゃないか?!」なんて思ってしまう人が多いと思うんですよ。そうでなくても、みなさんいろんな悩みにぶつかりますよね。私自身も、自分が生まれてきた意味というか、意義みたいなものを見失って、死んでしまいたいなぁと思ったときもありました。そのとき、やっぱり音楽や唄うことが支えだったのですよね。
[E:note]おばあさまは普天間さんにどのような教育をされたのですか。
普天間:小学生の頃から、遊びじゃなくて本気でしたね。「今日もよかったよ、上手だったね」なんて褒めてくれることはまったくなくて。いつも「今日はぜんぜんダメだった! アソコがダメ、こんなんじゃダメ!」と叱られるような毎日でした。だから私も、どうやったらみなさんに楽しい時間を過ごしてもらえるか、喜んでもらえる歌が唄えるのかというのを必死で考えるんですよ。ステージの袖から客席を見て、その日のお客さんはどんな感じかをチェックしたり、お客さんの一人をターゲットではないけど、「よし! どういう話をすればあのお客さんは笑ってくれるかな」なんて考えたりして燃えるんです(笑)!! 幼いながらも、いろいろ考えながらステージに立っていたと思います。
[E:note]プロ意識というのは年齢でも経験でもないのかもしれませんね。
普天間:よく同じアーティストと話をすると、たとえば中学生や高校生で何かすごく自分がショックを受けるようなアーティストや音楽と出会って、こんなふうになりたいとバンドを組んで…といったことを聞くんですよ。そう思うと、私にはそういう対象がいない。自分がこの人に憧れてこんなふうになりたいと思う前に、自分がステージに立つ方が先で、どうやって目の前の聴いている人たちを楽しませようかと考えているような子供でしたから…。だからちょっと、順番が違うのです。東京に出てきて音楽の仕事をするようになって、逆に自分の好きなもの探しが始まった…という感じですね。
[E:note]高校生で上京されたとき、沖縄と東京の芸能界はかなり違う文化でしょうし、「これはダメだ、沖縄に戻って沖縄でやっていこ~!」なんて思ったことはありませんでしたか?
普天間:いや~なかったですね(笑)。私は子供のころから歌しか唄ってなくて、歌手になることしか考えてなかったですから。唄っているのが当然のこと、好きなことをずっとやっていたら、こんなふうに今も歌っていられる。これはとても恵まれていることだと思います。沖縄で活動するという選択もあったかもしれませんが、当時はやっぱり中央に行って歌を唄いたい! もっと大きなフィールドがあるはず! という夢や憧れのほうが強かったですね。じっさい出てきても仕事の面で合わないと思うことはまったくなくて、逆に、「電車が…」だったり、「寒い…」だったり(笑)、仕事以外のところでは東京って大変だな~と思うことはありましたね。