中村あゆみ「人と話すのも避けてた」コンプレックスだったハスキーボイス
画像を見る 当時はガテン系やヤンキー系のファンが多かったという

 

■スカウトされても家に電話が無い。住所を渡すと……

 

そんな夜の街で大手芸能事務所のスタッフと知り合い、「あなた、顔と声のギャップがあっておもしろい。うちの事務所じゃ無理だけど、知り合いを紹介するよ」と連絡先を聞かれることも。

 

「だけど家に電話なんてなかったから、住所だけ伝えていたんです。するとある日、ドアに名前と電話番号が書かれた紙が貼ってあって。じつはそれが今の事務所のマネージャーなんですが、当時はあまり気にも留めていなかったですね」

 

ちょうどそのころ、泥棒の被害に遭う。アパートに帰ると枕の上に足跡があり、生活費として置いてあった現金がなくなっていたのだ。怖くなり、公衆電話へと走る中村さんが思わず手に取っていたのは、その紙だった。

 

「ほかに頼れる人が思いつかなくて……。それで指定されたスナックへ行くと、『泥棒のことはさておき』と、音楽プロデューサーの高橋研さんを紹介されたんです。その場で杏里さんの『悲しみがとまらない』(’83年)など2〜3曲を歌うと、高橋さんが『あなたの曲は絶対に僕がやりたい』と言ってくれて。あとはデビューまでのレールに乗せられた感じです」

 

コンプレックスだった声を、希少価値が高いという意味で「君の声はヤンバルクイナのようだ」と言ってくれた。

 

「“この声で生きていく”って覚悟ができました」

 

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