9月某日 東京
世の中には、日常生活では人の意識に触れ難い、だけどももの凄く重要で大切な役割をつかさどった仕事というのがいくつかあると思うのですが、映画などの『吹替え』というのもその中のひとつではないかと思っています。眩しい脚光を正面から浴びるスクリーンと、その中で動くインパクトのある俳優たち。映画というのはやはり大画面の中で展開されている映像に気持ちの大半を奪われてしまいますから、彼らのセリフを耳にするたびにいちいち〝実際はどんな調子で喋っていたんだろう〟とか、〝今のところは原語ではどうだったのだろう〟なんて事に意を介する人は、多分そんなに多くはないと思います。ただ、私のように日本語だけではない言語も使う人間には、なかなかそれは気になる事でもあるのです。
連載漫画『プリニウス』合作の相棒であるとり・みき氏は吹替えに詳しく、それに関する本も出版されていらっしゃいます。今回、彼のお誘いで『したまちコメディ映画祭in 台東』という催しもののプログラムの一つである『とり・みきの吹替え講座』なるイベントに参加してきました。
以前、『望遠ニッポン見聞録』というエッセイの著書で、まさにこの日本における吹替えについて思う事を書いた章があるのですが、そこではドキュメンタリーや報道番組で海外の一般の人々がふつうに語る言葉が、日本語の吹替えになるとイメージが少なからず塗り替えられてしまうことに違和感を感じる、という内容を記しています。
たとえば、イタリアの田舎のお婆さんがインタビューで答えている音声が、吹替えでは「わしゃもう疲れちまったでのう」みたいな田舎臭い言葉使いになっているのに、微かに聞こえる原語ではしっかりした礼儀語を使っていたりするのを聞くと〝先入観でその人の本来の雰囲気や人格を作り替えるのはどうだろう〟と、腑に落ちないものを感じてしまう事が度々あります。
吹替えは海外との距離感を一気に縮めてくれる
吹替えに関わらず、雑誌などのインタビューでもそうですが、インタビューアーが〝ですます調〟を使った敬語を用いているのに対して、欧米の映画スターなどの言葉が文字に起こされる場合はそのほとんどが「そうね。そうなのよ。わたしならそうするわ」といった上から目線的な雰囲気になる傾向があるように思われます。しかし、実際の彼らはもっとへりくだった言葉使いで返しているかもしれないのです。どうも『吹替え』の影響によって、我々は外国人というのは皆横柄な喋り方をするものなのだという印象を持ってしまいがちですが、イタリアにはじめて渡った時「イタリア語はきちんと敬語とタメ口を分けるため、代名詞や動詞を使い分けなきゃだめなんだよ」と教えられてびっくりしたのを思い出します。
とり・みきさんと会って間もない頃、私がそういった吹替えに対して感じている違和感について告げると、彼は私のいい分に納得しつつも、それがいかに大変な事なのか、いかに奥が深い事なのかということを示唆し、そして今回初めてそんなとりさんが自ら情熱と熱意を注ぎ続けている吹替えの世界の、真意や意味を、レクチャーを通じて学ぶ事が叶いました。
イベントではまず最初にとりさんが吹替えを監修したという『スサミ・ストリート』という不思議なドイツのコメディ映画を鑑賞しました。笑いのセンスというのは、多国間の異なる文化の中でも共有のハードルが最も高いもののひとつです。人種による笑いのツボの違いはあまりに大き過ぎて、例えば日本のギャグ系の漫画が欧米でなかなか翻訳されないのもそれが大きな理由になっています。
しかし、この映画の吹替えを監修したとりさんは、見事にドイツ人の独特なギャグセンスを日本人に通じる笑いに転換させ、観衆は最初から最後まで心おきなく笑って見続ける事ができました。レクチャーでは、実際この映画の原語がどんなものであったのかの比較もありましたが、もしもあの映画が原語のストレートな字幕だけだったら、それも翻訳の規定に沿ったギャグセンスの無い翻訳だったら、おそらく笑う事も叶わない意味不明な不思議映画で終わっていたかもしれません。
イベントではこの映画の吹替えをされた大ベテランの羽佐間道夫さんや大塚明夫さんら6名も登壇。吹替えの歴史や遍歴、昨今の前代未聞な声優ブームと声優という厳しい職業に抱かれる幻想、この職種が抱えてきた葛藤や差別……。彼らの話を聞いているうちに、私は声優という職業は、つまり映画というスクリーンの向うから伝えられる異文化世界を、日本人である我々に開いてくれる大事な役割を担っているものなのだという事を痛感しました。
私が『テルマエ・ロマエ』という漫画で、風呂という日本との共通の習慣を通じてそれまでは日本人にとっては遠い世界だったかもしれない古代ローマを知ってもらおうと試みたのと同じく、吹替えは海外との距離感を一気に縮めてくれる本当に重要なツールなのだということを確認したのでした。
文化が違えば笑いも違う。でも、言葉の種類や声色を変えるだけで、それはいくらでも身近なものになりえるのだという吹替えのマジック。
実際イタリアでは劇場公開のメジャーな外国語映画の場合、字幕というものは存在せず最初からどれも吹替え。「文字が出て来ると画面に集中できないんだよ!」というのが私の知る所のイタリア人たちの意見ですが、吹替えの歴史が古いイタリアの声優さんたちもその技能は相当なものです。
イベントが終わった後はかつて『テルマエ・ロマエ』のアニメでハドリアヌス帝の声をあててくださった大塚さんや、園崎未恵さん、水落幸子さんや星野充昭さん、そしてとりさんやイベントの企画者の皆さんと夜中まで吹替えや日本の未来など振り幅の広過ぎる話で盛り上がりました。
イベントの前に同じ場所で開催されていたクレオパトラ展の内容が若干霞んでしまうほど、吹替えという世界の面白さと広さ、そしてそこに携わる方々の意識の高さに心奪われた1日となりました。