お経を聴くのは葬式の時くらい。それも意味が分からないし、お坊さん独特のリズムで読まれるので、聴いているうちにだんだんと眠くなる……。そんな人は多いだろう。

それじゃ、あまりにもったいなさすぎる!
仏教のエッセンスが詰まったお経は、意味が分かってこそ、ありがたい。世界観が十二分に味わえる。この連載は、そんな豊かなお経の世界に、あなたをいざなうものである。
これを読めば、お葬式も退屈じゃなくなる!?

著者:島田 裕巳(シマダ ヒロミ)
1953年東京都生まれ。宗教学者、作家。東京大学文学部宗教学科卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。現在は東京女子大学非常勤講師。著書は、『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』『葬式は、要らない』(以上、幻冬舎新書)、『0葬』(集英社)、『比叡山延暦寺はなぜ6大宗派の開祖を生んだのか』『神道はなぜ教えがないのか』(以上、ベスト新書)、など多数。

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◎大乗非仏説論

大乗仏教のお経は、「大乗仏典」と呼ばれる。そうした大乗仏典に説かれた釈迦の教えと、実際に生前の釈迦が説いた教えとのあいだには、直接の関係はない。実際、大乗仏典にはいくつもの種類があるわけで、その内容はお経ごとに違う。とても同じ人物が説いたとは思えない内容になっている。

ところが、ここがややこしいところなのだが、昔の人はそうは考えなかった。大乗仏典には釈迦が説いた教えがそのまま記されていると考えられ、誰もそれを疑わなかった。

大乗仏典には釈迦の教えがいっさい含まれていないという説は、「大乗非仏説論」と呼ばれる。日本でこうした主張が行われるようになるのは江戸時代中期になってからのことで、大坂(今の大阪)の町人で学者だった富永仲基という人が最初に唱えたとされている。仏教に対して近代仏教学と同じような視角から切り込んだということで、富永仲基は高く評価されている。けれども、この説が同時代にすぐに広く認められたわけではない。

だからこそ、明治時代になって、村上専精という仏教史学者が、改めて大乗非仏説論を主張しなければならなかった。要するに、明治時代まで、日本の仏教の世界では、大乗仏典は釈迦が説いた教えそのものだと考えられていたのである。

◎延暦寺は仏教界の東大?

しかも、これが『法華経』が「諸経の王」と呼ばれたことと関連するわけだが、大乗仏典のなかで、とくに『法華経』を重視する人たちがいた。

その一番の中心が、中国で「天台宗」という宗派を開いた天台大師智顗という人物だった。智顗は、生涯説法に明け暮れた釈迦は、最後の段階になって『法華経』の教えを説き、そこではじめて真実の教えを明かしたという立場をとった。それ以前のお経は、みな、『法華経』の教えへと人々を導くための方便の教えを説いているにすぎないとしたのである。

この天台宗を日本に伝えたのが、日本の天台宗の開祖となる伝教大師最澄である。最澄は、真言宗を開くことになる空海と同じときの遣唐使船で唐に渡り、中国天台宗の中心である天台山に登って、そこで天台宗の教え、「天台教学」を学んだ。最澄は生涯にわたって、『法華経』が一番優れているとする「法華最勝」の立場をとった。最勝とは、もっとも優れているという意味だ。

最澄は、唐に渡る前、比叡山に入り、そこに延暦寺を建てる。比叡山延暦寺は、天台宗の総本山になるわけだが、平安時代から鎌倉時代にかけては、仏法を学ぼうとする人間たちが集まってくる仏教の総合大学の役割を果たすようになる。鎌倉時代にあらわれた法然や栄西、親鸞や道元、そしてに日蓮といった、やがて新しい宗派を開くことになる人間たちは、皆、一度は比叡山延暦寺で学んでいる。今で言えば、東大のようなところになるわけだ。

延暦寺では、天台教学だけではなく、密教や念仏信仰、あるいは禅も学ぶことができた。そのため、鎌倉時代の宗祖たちは、そのなかから一つを選び出し、もっぱらその道を追求することに価値をおくようになるが、延暦寺にいたあいだに、誰もが天台教学を学んだことは間違いない。その点で、『法華経』を高く評価する天台教学は、仏教を学ぶ上での基礎的な学問と位置づけられていたことになる。

したがって、鎌倉時代以降に生まれた宗派のなかでも、『法華経』は重視され、それぞれの寺で営まれるお勤めのときに読まれている。日蓮宗は、昔は「法華宗」と呼ばれていて、天台宗以上に『法華経』を重視してきたが、曹洞宗でも、『法華経』は読まれている。私の家は、たまたま曹洞宗の寺の檀家になっているが、葬儀や法事のときに、僧侶が『法華経』を読み上げるのを経験している。

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◎なぜ鑑真は苦労して日本にやってきたのか?

曹洞宗の宗祖となる道元は、晩年には『法華経』を唱えていたと伝えられている。親鸞の開いた浄土真宗では、『法華経』が読まれることはないが、中世から近世にかけて、その総本山である本願寺は天台宗の門跡寺院である青蓮院の末寺になっていた。しかも、本願寺を継ぐ親鸞の末裔は、いったん青蓮院で出家得度し、いったんは天台教学を学ぶということをくり返していた。

宗祖として活躍する人間たちが、誰もが一度は延暦寺で学んだのは、そこには「大乗戒壇」が設けられていたからである。戒壇は、出家得度し、正式な僧侶になるための施設である。

日本では、6世紀に仏教が伝えられてから、長い間、戒壇というものが設けられていなかった。そんなものいくらでも作ればいいではないかと思われるかもしれないが、戒壇を設けるには、出家得度した人間に戒律を授け、正式な僧侶として認める資格をもった「戒師」が存在しなければならなかった。その戒師が、当時の日本にはまったくいなかったのだ。

これも、考えてみれば驚くべき話だ。この段階では、戒師がいない以上、日本の僧侶はすべて本物ではない、「ニセ坊主」になってしまう。それは、日本の仏教界にコンプレクスを生んだ。

そのため、中国から正式な戒師を呼ぼうという話が出てきた。それによって鑑真を将来しようという計画が持ち上がる。鑑真は正式な戒師であり、その来日を待って、はじめて戒壇が設けられる。鑑真が何度も渡航に失敗しながら、それでも日本にやってきたのは、鑑真の側にもこれでは日本に本当の仏教は伝われないという危機感があったからだ。

鑑真の来日後、戒壇は、奈良の東大寺に設けられる。ほかに、下野薬師寺と大宰府観世音寺にも設けられた。南都六宗の僧侶になるためには、この三つの戒壇のどこかで授戒しなければならなくなる。

それに対して、最澄は、戒律を緩めた大乗戒を授けるための戒壇を延暦寺に建立しようと試み、その許可を朝廷に願い出る。南都六宗に頼らずに、自前で僧侶を要請する仕組みを作ろうしたからだ。

ただし、この許可はなかなか下りず、最澄が生きているあいだにはかなわなかった。大乗戒壇の許可が下りるのは、最澄が亡くなって7日目のことだった。

◎修行しなくても誰もが仏になれる?

最澄の主張した大乗戒というものは、出家した僧侶にだけ適用されるものではなく、俗人にも等しく適用されるもので、従来の戒律よりはるかに軽いものだった。その直接の根拠は、『梵網経』というお経に示された「十重四十八軽戒」というものだった。これは、10の重い戒と、それを補う48の軽い戒とからなっている。

それまでの戒律は、上座部仏教に由来する『四分律』というもので、男性の修行僧である比丘の場合には250、女性の比丘尼の場合には500の戒律を守らなければならなかった。出家した人間が守るものなので、かなり厳しかった。

最澄の主張した大乗戒は、これを大幅に緩和したものだが、その背景には『法華経』の教えがあった。『法華経』では、一切の衆生は必ずや仏になることができると説かれている。それこそが、このお経の中心となる教えになっていた。誰もが仏になれるのなら、厳しい戒律を守って修行を続ける必要はない。大乗戒の主張は、『法華経』の教えにもとづいて展開されたのである。

(つづく)

 

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