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「天皇ご一家とのテニスは毎回、とても楽しく、感謝の時間です。自分のために一生懸命向き合うテニス、若い世代に教えるためのテニスとはまた違って、和やかで、純粋な趣味としてのテニスを楽しめますから」

 

佐藤直子さん(64)は、日本プロテニス協会に登録した初の女子プロテニスプレーヤー。現在は、東京国際大学客員教授で、日本スポーツ協会の監事を務めている。天皇陛下とは30年以上前から、定期的にプレー。ご成婚後に雅子さま、現在では、愛子さまも加わられ、ご家族でテニスを楽しまれるようになったという。

 

「コートでボールを打ち合うと、旧知の友人のようになります。両陛下にはテニス外交をしていただきたいです」

 

佐藤さんは’73〜’88年、シングルス、ダブルス、混合ダブルスのいずれかでテニスの聖地・英国ウィンブルドン大会に出場。予選を勝ち抜いての本戦出場は14回に上る。伊達公子、杉山愛、大坂なおみへと続く、日本女子プロテニス選手の道を切り開いてきた。

 

「あなたは、生まれたその日にラケットを手にして、ボールをおしゃぶり代わりに育ち、初めて立ったときは、まるで弁慶のようにラケットを杖にしていたのよ」

 

’55年1月2日、東京都千代田区生まれの佐藤さんは、両親にそう言われて育った。住まいは国会議事堂の真裏にある一軒家。

 

「現在の参議院議員会館がある場所で官舎でした。父は当時、参議院の仕事をしていたようでした」

 

水泳を習い、2歳上の兄と野球もしたが、両親が特に力を入れたのがテニスだった。父・忠雄さん(故人)は、元全国7位のテニス選手。「子どもが生まれたら、テニスプレーヤーにする」という夢があった。そんな父に引っ張られるように、母・典子さん(90)も出産前からテニスを習い始め、夢中になって、大会にも出ていた。

 

「直子は将来、ラケット1本持って、世界を飛び回るんだよ」

 

両親からそう言い聞かされて、幼い日の佐藤さんは、ウィンブルドン選手権の女子の優勝杯・シルバーの大皿のつもりで、家にあるお盆を掲げ、表彰式の練習をしたものだった。

 

「こんな日常ですから、私はいつテニスを始めたのか、自分でもわからないんです」

 

物心がつかないうちから、母に連れられて、かつて皇居内にあるパレスクラブに通い、夕方、仕事を終えた父が佐藤さんと兄にテニスを教えた。

 

「父は『今日は負けても、2年後には勝つテニスをしなさい』と、言うタイプ。一方、短距離選手だった母は、目の前の結果が大事。『勝たないと意味がない』のです」

 

学習院女子中等科1年で、全国大会に出場したとき、初戦でいきなり強豪選手と当たってしまった。窮地に追い込まれた佐藤さんに、母の怒りは容赦なかった。

 

「当時の試合では、コートサイドまで保護者が入ってこられたんです。そこで母は、『ナナ(佐藤さんの愛称)のテニスじゃない。ウジウジしてる!』って」

 

叱咤すると、クルリと踵を返して、冷たく立ち去った。

 

「初めての大阪遠征で萎縮し、持ち味が出せていなかったんです」

 

母の怒りで目が覚めて、ふだんのプレースタイルを取り戻した佐藤さんは、逆転勝利。

 

「あれは、私にとって、人生をテニスに懸ける覚悟をするための大きな分岐点となる大会でした」

 

勝負にこだわる母の激しさが、後にプロ選手として世界と闘う佐藤さんのメンタルを作っていった。その大会で、シングルス、ダブルスともに優勝し、早くも「中学に敵なし」となった彼女の目は、自然に海外へと向いていった。

 

初めての海外遠征は、高校1年の夏休みにアメリカへ。

 

「アメリカのジュニア選手のずうずうしさには驚きました。自己主張が強く、ラケットを投げたり、審判に文句を言ったり。おどおどしていた私も『負けるわけにはいかない』と、神経がずぶとくなりました」

 

世界を転戦するために、そのずぶとさは必要不可欠だ。

 

「トーナメントに出るには、ディレクターに手紙を書くことから始まります。現在のプロ選手にはエージェントがつきますが、私の時代にそのシステムはなく、自分で、売り込むしかなかったのです」

 

試合実績のほか、《サーブ&ボレーが持ち味。男子のような力強いプレーです》《私を呼べば、アジアへのアピールになります》など、自己アピールを書き添えた。「コングラチュレーション」と返事がくれば、出場できる。

 

ヨーロッパ遠征に初めて挑戦したのは17歳。大人の大会に出て、初めて得た賞金は125ドル! グループで遠征する日本人選手が多いなか、佐藤さんは武者修行のように1人で世界を渡り歩いた。

 

当時のテニス界では、男女の格差が大きかった。同じ大会でも、男子は決勝戦をセンターコートで行い、優勝者には何百万円もの賞金が出る。対して、女子は賞金ゼロ。決勝戦も会場外のコートという格差があった。

 

「女子選手の地位向上のための運動が始まっていました。試合後で疲れていても、よりいい待遇を求めて皆で集まって会議をし、選手の夢であるウィンブルドンをボイコットするという話にまで発展したこともあります」

 

当時の世間の定評は「女子は弱いし、試合はつまらない」。入場料を取って試合を見せるプロなら、面白い試合をすることが絶対だ。

 

「観客は、全てをテニスに懸ける選手の気迫を目の当たりにしたいはず。私たち女子選手は、最後まで手を抜かず、『選手みんなで感動を与えられるように頑張ろう』と再確認し合いました。何かを得るためには闘わなくてはならないことを痛感した経験でした」

 

WTA(女子テニス協会)を立ち上げたビリー・ジーン・キングらを中心に、女子選手が団結して訴え続けたことで、徐々に女子の待遇は好転していった。

 

「そのおかげで、海外のトップ選手とも仲よくなれました。皆、貧乏旅行で転戦していましたから。同じ苦労を重ねたから、絆も強くなったんです」

 

飛行機もホテルも自分で手配し、スケジュールも自分で立てる。トーナメントで勝つほど滞在日数が延び、出費がかさむ。しかし、勝っても賞金はゼロかすずめの涙。

 

「ケチケチ精神が養えました。ビバリーヒルズに住む選手も、ラスベガスのカジノのオーナーの娘もいましたが、皆ケチ(笑)」

 

’77年、全豪オープンのシングルスでベスト8の快挙を成し遂げ、翌年には同大会ダブルスで準優勝。自信を深めた佐藤さんは、「日本プロテニス協会」初の女子の登録選手になることを決意する。

 

「海外の仲間との人脈を広げるうちに、日本人選手との違いに気づきました。海外選手は、試合に勝ってお金を稼ぐことは常識。ところが、日本では当時『プロ=お金に汚ない』と思われていたんです」

 

テニスで国際的に活躍するにはスポンサー契約は不可欠だ。今でこそ当たり前だが、アマチュアが美徳とされる風潮は根強かった。娘がテニスで世界に羽ばたくことを夢見た父でさえ、プロ契約には大反対だったのだ。’70年代に世界四大大会に出場して活躍した沢松和子さんは、アマチュアのまま契約を結んでいた。

 

「バイクメーカーの『カワサキ』とプレーヤー制度で契約し、部長待遇の給与で、ラケットやウエアなどは全て『カワサキ』から支給されていたんです」

 

ただし、この場合、サポートは、カワサキ1社からのみになる。

 

「1つのメーカーと契約するのではなく、ラケットやウエアで個別に契約を結ぶと、複数社のサポートを受けられるんだよ」

 

佐藤さんにそう教えてくれたのは、’70年代後半に、頂点を極めたビョルン・ボルグだった。佐藤さんは電話番号を自分で調べ、「ヤマハ」に直接、電話した。

 

「笑われて終わりと思っていたんです。ところが、『いつ伺えばいいですか?』って、わざわざ来てくれるの? と、ビックリしました」

 

待ち合わせの帝国ホテルに、担当者が7人ほど、全員スーツ姿で現れて、佐藤さんが提示した契約金もすんなりと了承してくれた。

 

「こんなことなら、後に続く選手のためにも、もっと高い契約金を言っておけばよかったなと思ったほど(笑)。アシックスからシューズ、ウエアはエレッセ、ダンロップとボールの契約をしたのも、私が最初だったと思います」

 

38歳で現役引退を表明した佐藤さんは以後、若手育成の方向に、テニス人生の舵を大きく切った。’11年から4年間、女性初の日本プロテニス協会の理事長を務めた佐藤さんは、若い世代の活躍が何よりうれしく、力の源にもなっているという。

 

「大坂なおみちゃんが小さいとき、会場のバスでよく一緒になりました。すごくシャイでかわいらしかったけど、パワフルになりましたね。錦織圭くんは、すごく礼儀正しい。面識はなかったのに、私の姿に気づくと、食事中にもかかわらず立ち上がり、挨拶してくれました。あの2人を見ていると、海外への道が当たり前になり、外国人とも堂々と闘えるようになったなぁと、しみじみ思います」

 

今年、大坂なおみは日本女子初の世界ランク1位(現在3位)まで上り詰めた。佐藤さんが切り開いた女子プロテニスの道に、大輪の花が今まさに咲き誇っている。

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