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昨年12月23日夕刻から目黒のライブハウス「ブルースアレイジャパン」で行われた一夜限りのクリスマスライブ。ピアノの前で、名曲『異邦人』を歌うのは久米小百合さん(59)。

 

かつては「久保田早紀」の芸名で、この曲により150万枚のミリオンヒットを成し遂げながら、わずか5年で芸能界を引退。以降は本名に戻り、音楽を通じてキリストの福音を伝えるミュージック・ミッショナリー(音楽伝道師)として活動している。

 

この日は、賛美歌CD『7 carats+1』の発売記念ライブ。共にゴスペル界で活躍する本田路津子さん、Kishikoさんと共演したこのCDは、同ジャンルでは異例のヒットとなっていて、その勢いに乗ってのジョイントライブでもあった。

 

《ちょっとふり向いてみただけの 異邦人~》

 

サビの部分では、会場を埋めた同世代の観客たちも、当時を懐かしむかのように一緒に口ずさむ光景も見られた。

 

「今日は、久保田早紀を思い出して来られた方も、そうでない方も(笑)いらっしゃると思います。ふだんは、教会やミッション系の学校などで歌うことが多くて、こうしたライブハウスでの公演はほぼ20年ぶり、昔ながらのアレンジの『異邦人』は実に34年ぶりでした!」

 

芸能界を引退後は、自身のキャリアを生かして、誰にでもなじみやすいオリジナルの賛美歌なども、精力的に発表し続けている。

 

かつて、歌うことが苦しい時期があった。デビュー曲がいきなりチャート1位に駆け上がり、シンデレラガールと称された。しかし、待っていたのはスターの名声に戸惑い、苦悩する日々。当時の心境をこんなたとえで表現した。

 

「気付くと、“久保田早紀という名の暴走列車”から降りられなくなってしまった」(久米さん・以下同)

 

’58年5月11日に東京都国立市で生まれた久米さんは、4歳からピアノを習い始めたが小6のときやめてしまう。一方で、小3のころから、友達に誘われて近所の教会の日曜学校に通い始めた。

 

「うちはクリスチャンではありませんでしたが、最初はカードやお菓子をもらえるのがうれしくて。そのうち『主われを愛す』など、意味はわかりませんが、賛美歌が大好きになりました」

 

同時に夢中になっていたのが、歌謡曲やフォークソングなど。やがてビートルズなどの洋楽にも目覚めた。父の転職を機に引っ越した八王子の中学時代のこと。同級生の男子3人組が『学生街の喫茶店』で人気のガロのコピーバンドをしていて、「おまえ、ピアノ弾けるんだってな」と、声をかけてきた。

 

「文化祭にキーボードとして参加したり。このころから、なんちゃってシンガー・ソングライターで(笑)。オマセな女友達の詞に、頼まれて曲をつけたりもしていましたね」

 

共立女子第二高校から、短期大学文科へと進学。文芸部に所属してしたが、ずっとオリジナルの詞や曲をノートに書きためていた。学生最後の思い出にと、CBSソニーに自作の曲を送ったのは、短大2年の春。

 

「いずれは就職して、結婚と考えていましたが、プロの方に自作曲の評価を一度も聞くことなく卒業するのは寂しいな、と思ったんです」

 

そのオーディションが実はアイドル候補向けとわかり、2次の水着審査で辞退。ところが2カ月後、先方から電話があり、個別オーディションを受けて合格となった。自宅とソニー・スタジオの往復時に乗るJR中央線の車窓から、偶然、空き地で小学生たちが遊ぶ姿を見かけた刹那、あの「子供たちが空に向かい」という詞が浮かんだ。

 

当初、『白い朝』と題されていたフォークロック調の曲は、プロのプロデューサーやアレンジャーによって、1年の準備期間を経て『異邦人』として生まれ変わり、芸名も著名な占い師の助言で『久保田早紀』と決まって、デビューへ。

 

小さなライブハウスでこつこつと実績を重ね、いつか大ホールでコンサートができたら……。そんな少女の夢を振り落とすように、早々にCMタイアップも決まり、彼女を乗せた列車は、始発駅から猛スピードで走り出す。

 

’79年10月、『異邦人』リリース。発売3週目でオリコン9位、人気歌番組『ザ・ベストテン』でも3週連続1位を達成するなど、新人としては異例の快進撃が続いていく。

 

「スタジオで収録を終えて楽屋に戻ると、ずっと憧れていた歌手の方々が隣にいて。まだ学生気分も抜けていなくて『サイン、ください』と言いたくなるのを我慢してたり。憧れだったユーミンさん(松任谷由実)にご挨拶したのも、デビュー10カ月目でした」

 

いきなり大ホールでのコンサートの準備が始まるなど、自分を置き去りに、周囲はどんどん突き進んでいく。

 

「私自身は、もともと曲作りが楽しいだけで、当初は『異邦人』も、歌うのは誰か別の人がやってくれると思っていたほどでした。ですから、正直、売れたという喜びもなく、自分の実力とは別物のように感じていました」

 

あるとき、旬のアイドルが表紙を飾ることで知られる月刊芸能誌の撮影に出向いたときのこと。

 

「超有名な男性アイドルの方がいて、カメラマンが『頬と頬をもっとくっつけて』と。注文には応じながら、胸の内では“私がやりたかったのはこんなことじゃない”と悔しさをこらえていました」

 

私は、どこへ向かっているんだろう……。虚像と実像のギャップを少しでも埋めようとしたとき、久米さんが試みたのは、自分の音楽のルーツに立ち返ることだった。

 

「本来、音楽は楽しいものだったはず。それで好きだったユーミンさんからガロ、ビートルズ、フォークソング、グループサウンズとさかのぼっていって、たどり着いたのが賛美歌だったんです」

 

都内のプロテスタントの教会で洗礼を受けたのは、デビューからちょうど2年目。そして、’84年11月のコンサートで、「久保田早紀商店は、今日で閉店です!」と宣言して、引退。4カ月後には26歳で結婚し、本名の久米小百合に戻って、音楽伝道師となった。

 

現在、久米さんは依頼に応じて、日本中の教会でライブや講演会を行っている。教会には信者だけでなく、ふらりと立ち寄る人も少なくない。

 

「『異邦人』の久保田が来るならと思って初めて教会に来て、のちに洗礼を受けたいという方もいるんですよ。音楽伝道師冥利に尽きます」