陣内貴美子 過酷な練習支えたマッチの存在「上京したついでに“出待ち”を」
画像を見る 57年、レコード大賞でのマッチ

 

■「マッチに会えるかも…」と期待してTBSで出待ちを…

 

練習に明け暮れた高校時代に出会ったのが、マッチだ。

 

「家に帰るのは夜遅くで、しかもクタクタ。だから『3年B組金八先生』(’79~’11年・TBS系)は見ていなくて、マッチの存在を知ったのは、学校でたのきんトリオが話題になっていたからなんです。“トシちゃんがいい”“マッチのほうが不良っぽくてカッコいい”というクラスメートのやりとりを聞き、大きなスニーカーのセットの前で『スニーカーぶる~す』(’80年)を歌うマッチをテレビで見て、すっかりファンになりました」

 

それを知った友達や後輩が、アイドル雑誌の『平凡』や『明星』のマッチのページを切り抜き、透明の下敷きに挟んでプレゼントしてくれた。

 

「ウォークマンはめちゃくちゃ高価だったので、小さいラジカセを買ってもらい、マッチの曲を入れたカセットテープ4~5本と一緒に旅行カバンに入れて、遠征先で聴いたりしていました。テープにはラジオの歌番組から録音するんですけど、リクエストハガキや曲の紹介が長くて、イントロ部分にかかってしまうと、もうがっかり(笑)。歌詞カードを持ってないから、曲を一時停止し、巻き戻しながら、ノートに歌詞を書き起こしていました」

 

ちょうどこのころ、16歳にして初めて日本代表入りを果たした陣内さん。

 

「マッチのセカンドシングル『ヨコハマ・チーク』(’81年)が私の誕生日にリリースされたときには、“お祝いしてくれてる”と勝手に思い込んでいました」

 

そんな“プレゼント”のおかげか、陣内さんは海外の大会のジュニアの部で優勝、シニアの部のダブルスでも準優勝した。

 

「『ギンギラギンにさりげなく』(’81年)もそうですが、その次のシングル『情熱☆熱風せれなーで』(’82年)はかなり印象が強かったですね。歌詞に出てくる『ポニーテール』に影響されて、よくポニーテールにしていた時期もあったくらい(笑)」

 

練習でどんどん忙しくなり、マッチが常連だった『ザ・ベストテン』(’78~’89年・TBS系)も、後半の5位から1位までしか見られなかったという。

 

「高校最後の東京での大会は、顧問の先生が来られなくて、同級生2人と私だけで上京したんです。それで、『ベストテン』を生放送していた木曜の夜、『マッチに会えるかも』って、3人で赤坂のTBSに“出待ち”しに行って。すごい数のファンが集まっている出口で待ったのですが、守衛さんに『ここからは出ないよ』と言われて、あきらめて帰りました。でも、マッチの近くに行くことができただけで満足でしたね」

 

そんな思い出を語る陣内さんは、’92年にバルセロナオリンピックへの出場を果たし、引退後はスポーツニュース番組など、テレビに出演するように。

 

「あるバラエティ番組で、マッチファンの北斗晶さんたちと、“マッチのことを誰がいちばん知っているか”をクイズで競ったんです。そこで私、なんと優勝することができて、マッチ手作りのお好み焼きをごちそうになれたんですよ!」

 

そんな夢のような体験ができたのも、’80年代から真摯にバドミントンと向き合ってきたからなのだ。

 

【PROFILE】

陣内貴美子

’64年、熊本県八代市生まれ。16歳でバドミントンの日本代表メンバーに選ばれ、’92年にはバルセロナオリンピックに出場。’94年の現役引退後は、スポーツキャスターとしてニュース番組などに出演しながら、バドミントンの普及・広報に努めている

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