「もう今までみたいに歌えない」川嶋あい“ライブ引退”の胸中を告白…歌手引退は否定
画像を見る 8月20日のライブを行う「LINE CUBE SHIBUYA」(旧・渋谷公会堂)と(撮影:高野広美)

 

■孤児の私を引き取り、育ててくれた“お母さん”

 

20年間、走り続けてきた川嶋がいま思うのは、亡き母のこと。

 

’86年、福岡県生まれの川嶋は、産みの母が病気で亡くなる前後に児童養護施設・和白青松園に入所。同施設をたびたび訪問していた、篤志家の川島夫妻は子どもがなく、川嶋が3歳のときに引き取られて親子3人の暮らしが始まった。

 

父の建設業は順調で裕福に育てられたが、川嶋が10歳のとき父が肝臓がんで他界。母子家庭となり、会社は傾きだし、家も豪邸から6畳1間のアパートへと移ろった。

 

すると今度は母が体調を崩して、心臓病に加え、がんも併発してしまう。それでも母は「娘を歌手にしたい」一心で音楽教室に通わせ、中学を卒業すると上京させて芸能コースのある高校に進学させた。

 

川嶋は、渋谷の街頭などで地道に路上ライブを始めると、現在の会社にスカウトされてデビュー、メジャーシーンへと駆け上がった。

 

母が故郷で一人亡くなったのは、『明日への扉』が全国ネットで流れるわずか2カ月前、8月20日のことだった。

 

施設で暮らしていた川嶋を娘として引き取った「お母さん」。わが身を削って夢を託してくれた天国のその母に、伝えたいことは。

 

「今年で最後と決めてしまって、『ごめんなさい』という思いです。 毎年この日は、母とステージで交信できる大切な日でした……」

 

そのライブが最後だという絶望と、まだ歌う機会は残されているという、わずかな希望。

 

「いま現在、闇と救いが混在しています。苦しい闇があるから、その先、どう生きていけるか、挑戦したい。負けたくはないんです」

 

いま、どんな光が見えているのだろうーー。川嶋は、しばらく考え込むと、顔を上げて話しだした。

 

「なぜそこまで、母が私を歌手にしたかったのか。ずっと疑問だったんですが、去年、私の歌の恩師の加峯恭子先生、麻美先生(ホットミュージックKaBu音楽学院)からこう告げられたんです……」

 

川嶋を施設から引き取ったものの、始終泣きやまない3歳児に困り果てて、母は加峯先生に相談。

 

教室で「お遊戯のように歌を始めると、ピタッと泣きやんだ」のだという。

 

「3歳の私が母に『歌うの楽しかった!』とすごい笑顔で言ったそうです。そこで母は『この子に歌を続けさせたい』と思ったのだと。

 

いま、30代半ばになった私は、『母のようなことができたらなあ』と思い始めているんです」

 

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