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顕彰碑建立を発案した中村栄さん(前列中央)と調査に携わった沖縄奄美連合会の奥田末吉会長(同左)、宮平良廣さん(後列左から2人目)、幼少期に平島医師から治療を受けた知念豊吉さん(後列左から3人目)=4日、南城市大里字稲嶺

 

今から100年前の1917年、現在の沖縄県南城市の大里字稲嶺に診療所を開き、約30年にわたり地域医療や公衆衛生に加え、貧しかった農村を豊かにしようと尽力した鹿児島県喜界島出身の医師、平島國造さんを後世に伝えようと、同区は今週にも顕彰碑を設置する。埋もれた地域の歴史をひもとき、未来に伝えていこうという取り組みが始まっている。

 

平島医師は1911年、長崎医学専門学校を卒業後沖縄に渡り、旧大里村稲嶺で開業した。当時の稲嶺は衛生状態が悪く、乳幼児死亡率が非常に高かったという。資料によると、平島医師は、母親らに乳幼児の衛生管理について分かりやすく教え、無料健診も行った。年々死亡率は低下していった。なぜ平島医師が稲嶺に来たかの記録は残っていないが、稲嶺区で民生委員を務める中村栄さん(68)は「『地域医療に貢献したい』という思想的なものがあったのではないか」と推測する。

 

生活を良くするため、平島医師の取り組みは医療にとどまらなかった。豚舎と一体型の便所が衛生状態を悪化させていたため、住民を説得し別々にした改良便所を全世帯に普及。銭湯(ゆーふるやー)や織物工場の設置、井戸の改良、サトウキビ共同販売組織の設立なども進めた。

 

平島医師は45年3月、戦況悪化のため28年間過ごした稲嶺を離れ、鹿児島県に疎開。人々の記憶から平島医師のことは遠のいていった。3〜4歳のころ治療を受けたという知念豊吉さん(77)は、27年前編集に当たった集落の記念誌で平島医師の功績を紹介した。しかし戦後70年以上が経過し、戦前のことが語られることはほとんどなくなった。

 

中村さんは若い世代に地域の歴史を知ってもらおうと診療所開業100年に合わせ、顕彰碑の建立を発案した。区の理解も得られ、中学生らを巻き込み、市の事業で30万円の予算を獲得。建立へ向けた動きを本格化させ、平島医師のその後の足跡も探り当てた。中村さんが沖縄奄美連合会会長の奥田末吉さんに連絡し、奥田さんの友人で喜界島出身の宮平良廣さんも加わり調べたところ、孫の潤子さんが東京で医師をしていることが分かった。奥田さんらが潤子さんに聞いたところによると、平島医師は疎開後、勤務医として鹿児島県内の診療所で働き、65年に81歳で亡くなったという。

 

「戦後なぜ交流がなかったのかは分からないが、沖縄戦で稲嶺区民の約半数が亡くなり、自身が生き残った負い目を感じていたのかもしれない」と話す中村さん。10月31日、鹿児島県を訪れ潤子さんと会い、本人には伝えられなかった集落の人々からの感謝の気持ちと顕彰碑の建立を報告した。稲嶺区は、今週にも公民館の敷地内に顕彰碑を設置することにしている。(中村万里子)

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