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「先週、ヨルダンから帰国したばかりなんです。終わりの見えない内戦が続くシリアでは多くの難民が安全を求めて国境を越え、ヨルダンの難民キャンプで生活しています。その多くは子どもたちです。私が訪れた難民キャンプでは100%電気が供給されるなど、ライフラインは改善されていますが、恵まれない状況に変わりありません」

 

真っすぐな瞳で語るのは、報道キャスター・長野智子さん(56)だ。世界の難題の最前線で飛び回っている。凛と立つ姿勢に、彼女の仕事の充実ぶりがうかがえた。

 

現在、『サンデーステーション』(テレビ朝日系)の報道キャスターに加えネットニュースサイトの「ハフポスト日本版」編集主幹。並行して国連UNHCR協会(国連難民高等弁務官事務所の日本における公式支援窓口)の報道ディレクターとしての活動にも心血を注いでいる。

 

「’00年に鳥越俊太郎さんの『ザ・スクープ』(テレビ朝日系)に参加した私は、9.11後のパレスチナに飛びました。その後も各地の難民キャンプを取材して、痛感したんです。難民、特に子どもたちを支援することは、彼らのコミュニティの未来を救うことであり、いま世界が直面している問題を根本から解決することにもつながるのではないかと。そうした思いから、国連UNHCR協会の活動に関わるようになりました。出会った難民一人ひとりが、私たちと何もかわらない、生きることを選んだ強い意志を持つ人たちだということ、もっともっと多くの人に、難民支援の意義を伝えたい。来年の『TOKYO2020』にはリオに続き、難民選手団が来日することが決まっています。自分の国の国旗を掲げることのできない彼らを、日本の皆さんに応援していただけるよう国連UNHCR協会のサポーターを増やすことが、私の役割だと思っています」

 

長野さんは日本では数少ない、ニュースの現場を知り、現場を語ることができる硬派の報道キャスターだ。

 

’80年代、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)の“3代目ひょうきんアナ”だった彼女からは想像しがたい現在の立ち位置ではあるものの、硬派というには柔らかな人柄がにじみ出ている。

 

スラリとした長身に、ごく薄いグレーの柔らかなツーピースが軽やかだ。肩肘張らない自然体で、さっそうとわが道を行く長野さん。だからこそ彼女が書いた直近のコラムは、あまりに衝撃的だった。

 

《39歳で始めた不妊治療。結局、47歳まで続けました。(中略)それまで、いろいろなコンプレックスを克服して強くなってきたつもりだったけど、努力しても乗り越えられないものってあるんだな、と初めて思いました》(「ハフポスト日本版」7月18日付より)

 

治療を断念して10年。いま、子どもができなかった悲しみと不妊治療の苦しみを告白するのは、何かを犠牲にする、男社会の働き方を変えたいからだ。

 

『ザ・スクープ』時代、長野さんに現場主義を徹底的にたたき込んだ鳥越俊太郎さんは、こう話す。

 

「不妊治療のことは、当時、本人から聞いていました。残念にも子どもができなかったとき、彼女が持て余したエネルギーは、報道アンカーという新しい出口を見つけて噴出した。いまも彼女はひたむきですね。必死です。個人的な経験に加え、多くの現場を踏んだ実績に裏打ちされた女性キャスターはほかにいない。長野さんには、報道番組で人の心に染み入る話のできる人になってほしい。若さばかり求められる日本女性の立ち位置を変える象徴になってほしいと思っています」

 

実際、“女子アナ”から報道キャスターへと、階段を上り続けてきた長野さんに相談にくる後輩アナウンサーは多いという。

 

「職場での性差別に関して、いちばん多く聞く声が『いまも本質は変わっていません』。私たち世代は男性並みに働くことが当たり前だし、『女は面倒くさい』と言われたくないと思ってきました。その意味で、男性の価値観を変えずにきたのであれば、申し訳ないなぁ、と。でも、私たちはあれをやるしかなかったなぁ」

 

かつて長野さんが、ひょうきんアナとして、世間から認知されたきっかけは、番組中に胸を触った芸人を蹴飛ばしたからだった。

 

長野さんが入社した’85年は、男女雇用機会均等法が制定された年。いま以上に、性差別が容認され、胸を触るような悪質なセクハラも、公共の電波に乗って堂々と全国に流れる時代だった。

 

蹴飛ばして、セクハラに対抗した長野さんは、『面白い女子アナが出てきたゾ』と、斬新だったのだ。

 

「変わっていないように見えても、少しずつ変わってきている。セクハラやパワハラに対して、これだけ声が上がるということは、やっぱり変わってきているんです。私は、女性の働く環境を変えるには、男性の働き方や生き方を変えないといけないと言っていますが、そういう議論ができることでも、30年前とは違います。前向きに変わっていると思いますよ」

 

と、後輩たちにエールを送った。

 

「テレビの仕事はずっと続けたい。共同作業であるテレビは、スタッフ全員の力が結集したとき、大きな力になって、ダイナミックな結果に直結することがあります。報道を重ねていくことで、『ストーカー規制法』の制定に結びついた『桶川ストーカー殺人事件』(’99年)がそうでした。テレビが大好きだからこそ、肩書はジャーナリストではなく、『報道キャスター』です。夢は、ホワイトハウスで大統領にインタビューすること(笑)。あとは、冤罪事件の取材・報道など聞こえない声を権力に届けたい。『ハフポスト日本版』も、多様性があり、誰もが生きやすい社会を推進するために、中央に声を届けるものでありたいです」

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