【デビュー40周年】中森明菜「命懸けで歌ってるの!」スタッフ震わせた『ベストテン』での檄
画像を見る 確定申告をする中森明菜

 

■デビュー直後のコンサートで『帰らないで!』と泣きながら歌っていた

 

「16歳で2人の名前を挙げるコを初めて見た。新しいカルチャーを作りそうなセンスを感じました」

 

歌手デビューという夢をつかんだ明菜は、東京・恵比寿にある大本氏の自宅でレッスンを重ねた。

 

「周囲は『第二の山口百恵』に育てようという雰囲気がありましたが、百恵に似ないように独自の『個声』と『表現』を徹底的に磨きました。明菜には『ア』『オ』の間の声に独特の響きがあった。この特徴を鍛えると、下からすくうようなビブラート、花が咲くような表現ができるようになった。これが、明菜のオリジナリティになりました」

 

’82年5月1日に『スローモーション』でのデビューが決まったが、メディア露出は難航した。当時、研音もワーナーも大手ではなかった。状況を冷静に分析した富岡氏は、地方のテレビ局やレコード店を地道に回る“演歌作戦”を敢行した。

 

「札幌や福岡など7大都市をデビュー前に2周しました。仕事があるわけではなく、ただ単に挨拶回りをしました。明菜さんは嫌がらずにやってくれました。『なんとしても売れたい』という気持ちが全身から伝わってきました」

 

デビュー4日後の5月5日、としまえんの野外ステージで複数のアイドルが出演するコンサートが開催された。明菜の出番になると、雨脚が強まった。観客が去ろうとすると、悲痛な叫びがこだました。

 

「『帰らないで!』と泣きながら歌っていた姿を見て『たいしたものだ』と感心しました」(大本氏)

 

いかに数少ないチャンスで人を引きつけるか。明菜にとって、すべてが勝負だった。一方、納得できない仕事には抵抗した。アイドル誌『平凡』で自宅の部屋を紹介する特集があった。出演の意味を理解できない明菜はスタッフ5人を前に、撮影を拒否した。困り果てた編集者から電話を受けた富岡氏が会社から急行すると、明菜は不満顔で「なんでやらなきゃいけないの。矢沢さんは出ないでしょ?」と述べた。富岡氏はこう説得した。

 

「矢沢さんはメディアに出ない。その代わり、全国の小さな街でライブをして、自分の歌を伝える。君は今、同じやり方をできない。だから、テレビや雑誌を通して自分を伝える。部屋を見た読者が君に興味を持って、歌を聴いてくれるようになる。方法は違うけど、矢沢さんと同じことをしているんだよ」

 

納得した明菜は満面の笑みでカメラに収まった。

 

「理由を説明すれば、全力で取り組んでくれる。一つひとつの仕事に妥協しないコでした」(富岡氏)

 

明菜は2曲目『少女A』で9月16日、『ザ・ベストテン』(TBS系)に初登場。一気にスターダムへ駆け上がっていく。作詞した売野雅勇氏(71)が述懐する。

 

「実際に歌を聞くと、自分のイメージを超える歌い方をしていた。『少女A』は明菜ちゃんが歌ったから、売れたと思います。彼女は感情の幅が広くて繊細なので、いろんな歌を歌える。アイドルの歴史を塗り替えた歌手で、誰よりもスターの存在感を持つ女性です」

 

その後、明菜は来生えつこ・たかお姉弟の『セカンド・ラブ』『トワイライト』という聖少女系、売野氏作詞の『禁区』『1/2の神話』というツッパリ系の歌を交互に発売し、ヒットを飛ばしていく。

 

「ああいう詞を書ける歌手がほかにいなかったから、すごく楽しかった。アルバムのレコーディングで初めて会ったとき、驚くほどきれいでかわいかったですよ。ただ、愛想はよくなかった(笑)。きっと僕の詞があまり好きではなかったのだと思います。でも、嫌な気持ちにはならなかった」(売野氏)

 

四方八方に笑顔を振りまき、大人の立てた戦略に素直に従う。当時のアイドルは、周囲の作った虚像の世界に置かれていた。だが、明菜は違っていた。川田が回顧する。

 

「私はその枠から踏み外しちゃいけないと思っていたし、自分の意見は言えなかった。取材で困ったら『よくわかりません』と答えなさいと教わりました。明菜は周りと同化しないタイプで、独特な世界観を持っていましたね」

 

1,500人以上のタレントを指導してきた大本氏が話す。

 

「強くて芯のあるコで、レッスン中も自分をごまかさなかった。たくさんのアイドルがいましたけど、“中森明菜”という自分を持っているコは彼女しかいなかった。唯一無二、孤高の存在感があった」

 

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