「机がバキバキに…」6歳のSareeeがプロレスに魅せられた瞬間
画像を見る ライバル・世志琥とタッグ「鬼に金棒」を結成。

「父は幼いころからプロレスを観て育った人で、アントニオ猪木さん(77)の大ファンでした。私とプロレスとの出合いは6歳、小1のときのことだったんです」

 

Sareee(本名=藤村沙里、’96年3月31日、東京都生まれ)は中学卒業と同時期に女子プロレス団体『ディアナ』に入門し、’11年4月17日、15歳でデビュー。’19年には4月に里村明衣子(41)、5月にアジャコング(50)とトップ選手を連破、さらにWWWD、センダイガールズと世界王座を戴冠して二冠となり、専門誌『週刊プロレス』のファン投票で「女子プロレスグランプリ」1位にも選出。今年2月には世界最大のプロレス団体・WWEへ移籍が決定し、渡米予定だったが、世界的な新型コロナ感染拡大により延期となっていた。

 

イメージカラーは“闘魂の象徴”赤で、入場テーマ曲は島谷ひとみの『太陽神』。伝統的なプロレス技術を受け継ぎつつ、抜群の運動センスと柔軟性でリズミカルにリングを躍動する、そして発散されるのは“陽のエネルギー”。そんな日本プロレス界が誇る“若き至宝”Sareeeは、いかにして形作られたのか、そのルーツと歩み、そして「これから」に、じっくり耳を傾けた――。

 

「プロレスを好きになったのは6歳のとき。きっかけは、板橋グリーンホール(東京都)で女子プロレス団体『NEO』の興行があり、たまたま近くを通りかかった父が私を連れていってくれたことでした。アメージング・コング(43)という外国人選手が、ものすごくデカかった印象をおぼえています。事務机の上に相手選手を寝かせて、上からボディプレスしたら、バキバキに机が割れたんです。『ヤバッ』と思ったんですが、怖さと同時に『私もやりたい』と思った。直感ですね」

 

以来、父が買ってくる『週刊プロレス』を毎週精読し、週末には会場で観戦する日々を送ったという。ただ、4きょうだいのなかでプロレスにハマったのは末っ子のSareeeだけだったそうで……。

 

「選手名鑑で名前を憶え、DVDも買ってもらって。家のテレビを私がプロレスで独占してしまうので、きょうだいからは『やめて!』と言われながら(笑)。なぜ、観ているだけではなく『やりたい』と思ったかというと……当時から強いレスラーが好きだったんです。かわいいレスラー……たとえばピンクのコスチュームなんかにはあまり惹かれず、とにかく『体がデカくて、強い』というパワーファイターに憧れていました。好きだったのは、『NEO』のエースとして活躍されていた元気美佐恵さんでした」

 

中3の進路決定時のことを、Sareeeはこう振り返る。

 

「進路を決める面談の際には、『プロレスラーになるしかない!』と思う自分がいました。担任の先生には、かなりビックリされましたね。『いきなり、なに言ってるんだろう?』と思われたと思います」

 

そのように、進路は「プロレス」、就職先は、生まれて初めて観戦した団体「NEO」と決めていたという。しかしその年の春、「NEO」は解散を発表していた。

 

「小さいときからの夢でしたので、『どうしよう……』と困っていたんですが、井上京子さん(51・全日本女子、NEOなどを経て、現・ディアナ所属のベテラン)が声をかけてくれたんです。『新団体(ディアナ)をつくるからいっしょにやろう!』と。私は『よく会場に来ているちびっこファン』として知られた存在だったので、『レスラーになりたい』と考えていることをご存じだった京子さんが心配してくれて、父に連絡が来たんです」

 

中3の10年7月から練習に合流し、当初は京子にマンツーマンで指導された。その後、京子の全女時代の1年後輩である伊藤薫(49)が合流して京子と新団体旗揚げを準備、Sareeeはその一期生としての入門を見据え、練習することになるのだ。

 

「入門前の段階で、基礎の受け身の練習をはじめ、キツいメニューばかりで全身アザだらけ。特に首押し(=首の筋肉を鍛えるトレーニング)がキツくて、授業中、机の上で頭を抱えていました。学校に申請して特例を認められ、給食を食べてすぐに下校して、午後から練習に参加させてもらうことになりました。毎日メッチャつらかったんですが、『なりたかった夢の世界に行けるんだ!』ということで、道場があった綱島までの2時間近くの電車移動も、通うのが楽しかったんです。『やりたいこと』を見つけて、それが『できる道』が見つかったんですから」

 

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