カーリング女子日本代表・ロコ藤澤五月らの「周囲への感謝」
画像を見る 1人ひとりが「みんなのため」に歩んできた(写真:アフロ)

 

■解説を務めていた石崎はチーム入りを打診され……

 

15年10月、本橋は3,725gの男の子を出産して、ママになった。結婚・出産は、彼女にとって選手引退ではない。

 

それには常呂のカーリング普及に尽力した阿部周司さん(故人)が常々言っていた「女性としての人生を大切にしながら、カーリングに真剣に取り組みなさい」という言葉が根底にあるのだという。

 

「結婚や出産も含め、さまざまな出来事にもカーリングを軸としてブレないのがカーラー。同時にカーリングは人生を豊かにするツールではあるが、人生のすべてでもない。この周司さんの教えが、私の中でいまも生きているんです」

 

バンクーバー五輪金のスウェーデン代表に見た生きざまは、それを体現していたと思い返す。

 

「彼女たちはトリノ、バンクーバーと五輪連覇した4年間に全員がママになっていました。アネッテ・ノルベリ選手の『私たちはつらい時間を乗り越える力があった』というスピーチと周司さんの言葉がオーバーラップしたんです」

 

しかし実際には、出産後の両立の難しさは想像以上だった。特に選手復帰を目指し始める出産4カ月後からが「キツかった」という。

 

「それまでの私は完璧主義なところがあって、人に『助けて』と言えなかった。でも出産後は、弱音をたくさん吐きました。メンバーは、たとえば誰か早く食事が終わったコが長男の世話をしてくれたり。さらに保育士経験のある夕湖のお母さんをはじめ、みんなで子育てしてくれました」

 

周囲に支えられ、本橋はおもにフィフスとして戦列に復帰した。

 

「主人もちゃんと子どもの面倒を見られますが、海外遠征中は義理のお母さんに預けたりもしました。帰国すると長男がけっこう大きくなっていて、ちょっと私のことを忘れていたり……ハハハッ」

 

そうして平昌五輪出場を果たし、彼女は冬季五輪日本初の「ママ・メダリスト」となったのだ。

 

本橋同様、「カーリングを軸にした女性の生き方」を貫いてきたのが、現フィフスの石崎琴美だ。

 

79年帯広市生まれ。河西建設女子、チーム青森で本橋と過ごした時期があり、15年と18年の2度、戦列を離れた本橋に代わってロコに“助っ人”参入もしていた。

 

最近は在籍チームがなく、テレビ中継の解説を務めていた石崎に20年、北京五輪を見据えた正式入団を打診したのは、本橋だった。

 

「GMの業務に加え、次世代育成も始めた私は現実的に現場に戻れない。『琴美ちゃんしかいない』とみんなの意見が一致したんです」

 

なぜ、全会一致で石崎へのラブコールとなったのだろうか。

 

次ページ >20年、石崎に北京五輪を見据えた正式入団を打診したのは本橋だった

【関連画像】

関連カテゴリー: