ノンフィクション作家の澤地久枝さん(83)は、1月14日、都内の日本記者クラブにいた。特定秘密保護法案の廃止と安倍政権の退陣を求めての「マスコミ9条の会」などによる会見に、発起人の1人として登壇。決意を語る口調は激しかった。「私は、どんな所にでももぐり込んで、(極秘情報を)取ってくる覚悟です。捕まるなら最初の囚人になります」。
『妻たちの二・二六事件』や、新聞記者が沖縄返還の密約を暴いた事件に迫った『密約外務省機密漏洩事件』などの著書もあり、国家が情報を独占する恐ろしさを知り尽くしている。そして、少女期の戦争体験も。そんな澤地さんには、危険な要素を含む法律がなしくずしに成立していく日本の現況が、戦争に邁進していく時代と重なって見える。いや、むしろ今のほうが悪い、と憤る。
「安倍内閣が約1年前に発足して以来、こんなにひどい政治は、私が80数年生きてきた歳月のなかでかつてないと思いました。そして、特定秘密保護法の成立。あの法律は今や、この社会にあるんです」
1930(昭和5)年、東京で生まれた澤地さんは4歳のとき、一家で満州に渡った。父は満鉄に勤めて、社宅に入り、中流の暮らしになった。’39年のノモンハン事件後、担任の出征を見送った。’42年、シンガポール陥落。
「吉林市の講堂では大祝賀会がありました。3人の少女が代表で軍歌を歌ったんですが、恥ずかしい話、その1人が私でした。〈この一戦、なにがなんでも、やりぬくぞ〉〈立つやたちまち撃滅の〉と――。今の方は肌でわからない感覚でしょう。私は軍歌をよく知っていたんです。なぜか。予科練に言って、死ななければと思っていたから」
予科練とは海軍飛行予科練習生のことで、女子は入れないのだが。一方、異国の地での悲惨な別れも経験した。
「上の弟が’40年に数えの3歳で、下の弟が’44年に生後7カ月で死にました。赤痢、チフスなど伝染病も多かったんです。弟の死は悲しくて、夢遊病になってしまうほどでした」
やがて、社宅のまわりの有刺鉄線や郵便ポストまで軍に供出されていくさまを見て、母が呟いた。「この戦争は負けるわね」。10代の澤地さんは、こう応じたという。「母ちゃん、非国民ね」。
’45年早々、校内は無炊飯梱包作業の工場になる。
「ご飯に水をかけ瞬間的に凍らせ乾かす。水をかけるとご飯に戻る。孤島の兵士に送るため、ゴミを取り除いて一食ずつ梱包する厳しい作業でした。つづけて6月から開拓団に住み込み。ついで学校の講堂で陸軍三等看護婦見習い。学徒動員です。ソ連参戦で学校は野戦病院になりました。女学生の戦争協力の裏には、若い軍医や衛生兵への思慕があり、みんな軍国少女に仕上がったと思います」
そして終戦。澤地さんは、母方の叔父一家の壮絶な最期を知らされる。
「叔父は家具職人出でしたが、敗戦直後の8月19日、ソ連兵に追いつめられた末に、北朝鮮で妻子とともにダイナマイトを抱えて一家自決したんです。人を愛して、義父から『職人風情に娘はやれない』と言われて、徴兵検査で兵隊になり、仕方なく軍人になった人でした。どうしてそこまで戦争は人をおいつめるのか。これも戦争を思うときの強烈な原体験といえますね」
いつも戦争の犠牲になるのは、無名の人だった。ダイナマイトを抱えて死んだ叔父一家。帰国後にガラス拾いをして夜の町を歩いた両親。軍歌で見送った兵士たち。
「それから、軍国少女であった自分。いかに無恥であったことか。現在、若い女性たちが、すでに私のようになってしまっているかもしれない。アメリカ、中国、ロシアという大国があって、明日徴兵制がきてもおかしくはない国になりつつある日本。昔ながらの国の考え方ではなく、話し合いでいきます、と再出発したのが戦後日本のはずなんです。ぜひ、お母さんたちに聞いてみたい。『今の世の中に不安はありませんか』と。『原発もこのまま、子や孫に引き継ぐことに、ためらいはありませんか』と」