「病気になってしばらくしたころ。あの人ね、しみじみ言ったんです。『考えてみたら僕ら、家族旅行もしたことなかったな』って。本当にそう。私たち、家族全員で旅行したこと、なかったのよ」

 

たくさんの花に囲まれた祭壇の遺影からは、いまにも故人の笑い声が聞こえてきそうだ。ちらりとその笑顔に視線を送りながら、翁長樹子さん(62)は、静かに、かみ締めるように語り始めた。

 

’85年に那覇市議に初当選。以来、政治家一筋、人生のすべてを地元・沖縄に捧げてきた。’14年の知事選では、「日本の国土のわずか0.6%の面積の沖縄に、70%という過剰な基地負担を強いられ続ける現状を看過できない」と訴え、名護市辺野古の新基地建設断固阻止を掲げて立候補し、圧勝した。

 

知事就任以降は、地元の民意に反して基地建設を推し進める政府と、激しく対立した。意に沿わない沖縄に対する政府の姿勢は、あからさまに思えた。樹子さんは怒りを隠そうとしない。

 

「たとえばね、米軍のオスプレイが山口県の岩国基地に何日間か駐機したことがあったの。そんなとき、安倍さんはすぐに飛んで行って『ご迷惑をかけます』と頭を下げた。『どうして?』って思いましたよ。オスプレイが来て嫌なのは山口も沖縄も一緒なのに。そして知事選で沖縄は『ノー』と民意を示したのに」(樹子さん・以下同)

 

基地問題では政府に強く抗議を重ね、その数日後には予算の請願に同じ相手の元に足を運ぶ……。常人ならストレスと重圧で参ってしまうだろう。それでも知事は「沖縄のためなら我慢できる」と話していたという。しかし、それはまさに命を削る日々だった。

 

「去年の暮れぐらいから、翁長は『体重計に乗るたびに体重が落ちている』と。初めは糖尿病を疑っていたんだけれど。それにしてはおかしいということになって。いつも診ていただいていた医師の勧めで、PET検査を受けたら、すい臓にがんが見つかったんです」

 

それが今年4月初旬のこと。その先に待ち受けていたのは壮絶な闘病生活だった。知事は腫瘍が見つかったことを公表した会見で「根治できる」と力強く語っていた。しかし……樹子さんは言う。

 

「本当はもう、そのころには彼は『おそらく僕は12月までもたないと思う』と、私にだけは言っていました。そして、知事公舎に置いてあった本や資料を、ひとりで整理し始めたんです。私が『やめて!』と何度言っても聞かなかった。『きみたちにはできないことだから、これは自分でやるから』と言って」

 

死期を悟った夫の姿を目の当たりにしても、樹子さんは奇跡を信じた。あなたの死に場所はここじゃない――そう、夫にも、自分にも言い続けた。

 

「がんとわかったときにもね、いまはいろんな治療法もあるし。私は『東京でもどこでもいいから、いい病院を探そう』と提案したの。でも本人が反対したんです。『僕の命は沖縄の人に任せたい』って」

 

4月21日、知事は県内の病院で腫瘍の摘出手術を受けた。翌5月半ばの退院後も、抗がん剤治療などを続けながら、公務への復帰を目指した。しかし、その後も病魔は彼の体をむしばみ続けた。

 

7月には、辺野古沿岸部の埋め立て承認の撤回に向け、防衛省沖縄防衛局から弁明を聞く「聴聞」の実施を通知する方針を固める。7月27日、知事はその経緯を説明するための記者会見に臨んだ。

 

知事室からわずかな距離の会見場に入る前、廊下のいすで休んでいる姿を報道陣に目撃された知事は「外反母趾で歩くのがきつい」と答えていた。

 

「本当は違うんです。前日、県庁に行って撤回に向けた最後の打ち合わせをして公舎に帰ってきて。『ただいま』と言ってから玄関にあったいすに座って3分休んで。やっと立ち上がれたと思ったら、また廊下に置いたいすで3分、またリビングで3分、寝室までの廊下でまた3分。元気なときは十数秒で歩ける距離を20分もかけないとたどり着けない、そんな状況だった。会見の日の朝、ご飯を食べながら彼はこんなことも言ってました。『こんな状況で記者会見なんかできるかな? 記者たちの質問に答えられるかな?』って」

 

結婚以来、夫が漏らした初めての弱音に樹子さんは、「できるに決まってるじゃないの。何のために頑張ってきたの。あなたがやらないで、誰がやるの」と言って、すっかり小さくなってしまった背中を押した。

 

そして、それからわずか12日後の8月8日。知事は帰らぬ人になった。