ベトナム戦争下のサイゴンで、死にゆく兵士たちを励ますために踊り続けた一人の日本人女性がいた。混沌としたアジア諸国を渡り、バンコク日本人社会では、知らぬ人はいない存在となっていた。
現在、バンコクで居酒屋「まりこ」を営む武山真理子さん(81)。1932年、台湾・高雄市で生まれる。父は実業家で家政婦がつくお嬢さま育ち。4歳で児童舞踊団に入り、高雄の兵隊の慰問に呼ばれ、無邪気な愛嬌を振りまいていた。しかし敗戦。「親切だった台湾人が、いきなり『日本人帰れ!』と石を投げてきたのが、ショックでした」。’46年に帰国後、フラメンコを学びたいと弟子入りし、米軍基地や各地の公演をこなすうち、日劇からスカウトされた。
スポットライトを浴びる日々は充実感と恍惚感をもたらした。’62年に結婚し、引退。長男が生まれたが、姑にひどくいじめられ1年で離婚。同じころ、父が病死し、観光業界紙の会社を継ぐことに。しかし、社員が会社の金を横領して逃走。そこで、ダンサーも続けていた彼女にアジア巡業の話が。ギャランティのいいこの話に乗った。
真理子さんが初めてバンコクを訪れたのは’64年。ショーダンサーとしてアジア巡業を回るうちのひとつだった。店の椅子に座り、たばこをくゆらせながら、真理子さんはゆったりと話し始めた。
「日本人女性は、どこの国でも少なくて、珍しかった時代ですからね。すごく大切にされましたよ。現地の人からたくさんプロポーズされました」
背後の壁には、ショーダンサー時代の華やかな写真。
「これは日劇のころ。この衣装は、当時の値段で数百万円はしましたね。これはベトナムに行ったころで、韓国兵を前にアリランを歌った時の写真です」
そして、棚から探し出して見せてくれたのは、彼女を取り上げた雑誌や新聞の記事だった。《女ひとり東南アの暗黒街をいく(「週刊ニュース特報」’64年6・20号)》《戦場の日本人ダンサー ベトナム特派員たちの“伝説の恋人”(GQ JAPAN’93年11月号)》《踊った働いた幸せな人生よ(朝日新聞’08年2月11月号)》など、真理子さんはこれまでさまざまなメディアで紹介されてきた。
日中戦争、第二次大戦、ベトナム戦争、高度成長期と、昭和の激動とピタリと重なる81年の人生だ。ことに、’65年から6年間、ベトナム戦争まっただなかのサイゴンで、米兵のために踊った日本人ダンサーは、真理子さんだけである。
「衣装はビキニ。炎天下で15分踊るんだけど、盛り上がってくると兵隊たちが『テイクオフ、テイクオフ』って言うんですよ。ビキニのひもをちょっとずらすと、歓声が『わ〜っ!』。でもそこまでですよね、サービスは。兵隊の前でヌードになったら、大騒動になりますから。踊る私の前後左右にMPが立ち、守ってくれていましたから、安心でした」
ベトナムでは米兵とこんなやりとりも。「マリコ!キミはこんな田舎までくるんだね」「そうよ。この前、一緒にいた友達はどうしたの?」「あいつはあの日、死んだよ」「ああ、そう」話はそれで終わってしまう。死は当たり前のようにそこにあった。
「道を歩いていると、真っ黒な物体があっちにもこっちにもある。『ボロきれかな』と思ってそばにいくと、ハエがブワァって飛ぶんです。何かと思うと、うじがわいた死体なんですよ。そういうのを何度も見ていると、目の前に死体があっても、ご飯を食べてしまえるんですよ。それが戦争なんです」
彼女の半生は’92年、『ソング・オブ・サイゴン』というミュージカルにもなった。真理子さんを演じたのは宝塚の元星組トップスター・鳳蘭だ。
幼少時代の台湾で、慰問に行ったベトナムで、2つの戦争を体験した真理子さんは、強く思う。
「国の指導者やその家族、子供は絶対に戦争に行きません。命令して、損得の勘定をしているだけ。それが戦争。米兵には黒人が多かった。戦争で犠牲になるのは、いつも一般の人たち。権力もお金もない人ばかりなんです」
そして、平和ボケで想像力が欠如した日本人を憂えた。「もちろん私は、反戦の立場です。戦争は、何の罪もない人が犠牲になるということを、この目で見ていますから。今の日本があるのは、過去の日本人の犠牲と努力があったから。それを忘れないでほしい。今の日本人は日本という国に対して、無責任な気がします」
今年は、真理子さんが海外に出て、ちょうど50年の節目の年。帰国するには絶好のタイミングに思えてならない。アジアは何やらキナ臭く、平和に慣れすぎた日本人にとっても、真理子さんはかけがえのない貴重な時代の証言者なのだからーー。