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「はっちゃん」こと田中はつゑさん(82)は、桐生市で20年前からランチ限定の食堂を営んできた。その名も「はっちゃんショップ」。手作りの家庭料理が1人500円で、時間無制限の食べ放題。日替わりで20品ほどが大皿に山と盛られて台に並ぶ。その料理が売り切れると、営業終了。

 

開店は11時30分だが、その時刻には連日、ひなびた店の前に長蛇の列ができる。20年前の開店当初、はっちゃんが定めたのは、「県外客は無料」という仰天ルールだった。

 

「だって、何十軒、何百軒って数の食堂を通り越して、うちまで来てくれるんだよ。そのぐらいサービスしなくちゃ」(はっちゃん・以下同)

 

当初こそ地元客がほとんどだったが、異次元のコストパフォーマンスと、はっちゃんの飾らない人柄が口コミで広まり、やがては客の多くが県外から来るように。

 

「だから、申し訳ねえけど県外のお客さん無料ってのは、もうやめた。だって売り上げが1銭にもならなくなっちまうがね」

 

申し訳なさそうに言うが、はっちゃんのサービス精神は尽きない。いまも小学生以下の子どもは、どれだけ食べても無料。また、おかずが残り少なくなってから来た客には、「300円だけ、もらっとこうか」ということもあれば、「金はいらね。残りもんだけど腹いっぱいになるまで食べてけ」と言うことも。遠方からの客には、いまだに「これでジュースでも飲んで帰って」と、逆に小遣い銭を渡すことさえあるというから驚きだ。

 

当然、店の経営は赤字続き。はっちゃんはその赤字を、夫が残してくれた遺族年金で補填しながら営業を続けている。そんな赤字覚悟、いや赤字前提の超ユニーク食堂を、メディアも放っておかない。ここ数年は海外メディアを含め、多くの取材が殺到している。

 

はっちゃんは1935年、桐生市生まれ。織物の盛んな町らしく、父・留吉さんは機織り機の修理を、母・サダさんは機屋で仕事をしていた。長女のはっちゃん誕生以降、一家は苦境続き。’38年、渡良瀬川が氾濫し家をなくした。’41年、太平洋戦争が始まると大黒柱の留吉さんは軍隊に。

 

「たしかに貧乏だったけど、大事にしてもらってたよ。お母さんは勤め先から端切れをもらってきては、オレのお正月の服を夜なべして縫ってくれた。『襟が上手にできねえ』と言いながら、一生懸命にね」

 

父の復員もつかの間、母が病いに倒れてしまう。終戦翌年の2月、サダさんは32歳という若さで息を引き取った。その死から1年もたたない同年11月。父は、はっちゃんの前に1人の女性を連れてきて「この人が新しい母ちゃんだ」と言った。女性は父の昔からの浮気相手だった。

 

継母に懐くことなど到底できない。継母も彼女が疎ましかったのだろう、はっちゃんをすぐ奉公に出した。そして、折々で奉公先を訪ねて来ては、はっちゃんのわずかばかりの給金を前借りしていった。

 

「あちこちに奉公に出されて、畑仕事や山仕事、それに子守が多かった。どこの家も、学校なんて行かせちゃくんなかった。一度だけ、奉公先に学校の先生が訪ねてきて『義務教育なんだから』と掛け合ってくれて。そこの女将さんも、学校に行くこと許してくれたけど」

 

赤ん坊を背負って登校したものの、子守をしながら授業を続けることは不可能だった。はっちゃんは通学を諦めた。だから、いまでも読み書きできるのはひらがなだけだ。

 

「学校に通える同級生が羨ましかった。とくに遠足や修学旅行が……オレもいつか、修学旅行に行ってみてえなって、そのころからずっと思ってた」

 

17歳で住み込みの機織りの職に就いた。このときも父が、はっちゃんの3年分の給金1万円を前借りしていった。自由に使えるのは月々の小遣い200円だけ。当時、はっちゃんは月に2日だけある休日に、映画を見るのが、唯一の楽しみだった。その映画館で、夫となる昇三さんと出会う。

 

’57年、21歳のはっちゃんは田村昇三さん(当時24歳)と所帯を持った。’59年に生まれた長女を筆頭に、3人の子宝にも恵まれた。

 

しかし、結婚後も、父と継母はたびたび金の無心に来た。そのつど、はっちゃんはやりくりして工面したという。そして、自分の新しい家族を守るため、子どもたちを育てるため、常に2つ3つとパートを掛け持ちして働いた。それでも家計は苦しく、着飾ることなど考えたこともなかった。

 

「いっつも同じ服だから、職場の仲間からは『はっちゃんはどこにいてもすぐわかる』と馬鹿にされた。悔しかったけど、いまに見てろと頑張ったよ。それに、オレには夢があったんさね。1人で行く修学旅行……子どもたちが独立して手を離れたら、夢を実現させようと思ってた」

 

40代になったはっちゃんは、相変わらずいくつも仕事を掛け持ちしていた。そのなかのひとつに、日曜だけの結婚式場の仲居の仕事があった。

 

「平日の仕事で稼ぐ金は、家族が食べていくのに使わないといけなかったけど、日曜の稼ぎは『自分のために使う』って決めた。郵便局に積み立てて、15年で300万円ためた」

 

はっちゃんは、その資金を元手に、原付バイクで日本一周の旅に出たいと考えたのだ。長男を産んだ直後、原付免許を取得しており、バイクは日常の足だった。

 

「夫は大反対さ。『絶対ダメだ!』と。『漢字をまともに読めねえおめえが、日本一周なんてできるわけねえ』って」

 

でも、はっちゃんは頑として譲らなかった。「どうしてもダメと言うなら、離婚してくれ」という妻の言葉に、夫は言葉をのんだ。

 

「しばらくたってからだな、『おめえ、まだ諦めてねえんか?』って聞いてきた。そんで『どうしても行くんだら、早う行って帰ってこい』って言ってくれた。定年してもらった自分の退職金から100万円、餞別までくれて」

 

成人した子どもたちも餞別を用意してくれて、計500万円を手に冒険に出た。’93年3月、はっちゃん57歳のときだ。「47都道府県、全部回ってスタンプをもらってくる」と言う目標を立てていたという。

 

「日本一周なら、たとえ道がわかんなくても、海岸線をぐるっと回ればいいんだろ、なんて思ってたんだ。でも、全部の県を回るとなると、ところどころ内陸に行かなきゃなんなくなって。それがまた大変だった(苦笑)」

 

行った先々で、たくさんの人の情けに触れたのも大切な思い出だ。出発から104日目。はっちゃんは全都道府県を制覇して、故郷・桐生に戻ってきた。

 

日本一周から5年。62歳になったはっちゃんは、長年パート勤めをしていた会社を退社。

 

「もう年も年だし、どこも雇ってくれねえかな、なんて思ってたんだけどさ」

 

決して簡単に諦めないのがはっちゃんだ。なにより働くことが大好きな人なのだ。

 

「魚屋さんで働いてたころ、いくらか商品のお総菜を煮たり焼いたりした経験があったから。ああいうもんだったら、いまのオレでもまだやれるかも、なんて思ったんさね」

 

こうして、自宅の物置を改築してオープンしたのが「はっちゃんショップ」だった。62歳にして起業したのだ。

 

システムはいまと同じ500円の食べ放題。「ワンコインがわかりやすくていいがね」と言うはっちゃん。だが、そのワンコインすら請求せず、先述したとおりの大盤振舞いも日常茶飯事。おかげで客が増えれば増えるほど店の赤字が膨らんでいく。2カ月で18万円ほどの昇三さんの遺族年金、そのほとんど、およそ15万円は赤字の補填に消えてしまう。

 

「こんなもうからねえことやって『バカのやることはわかんねえ』ぐらいに思われてるかもな。でも幼いころ奉公先で意地悪されたことも、57歳で出かけた原付日本一周の旅で、優しくされたことも、オレは覚えてる。だから人を泣かせるもんじゃねえって思うし、人にはうんとよくしてやるつもりだよ」