「人類の敗北」との見解さえ発表されるほどの大流行となったエボラ出血熱。その悪夢の渦中に飛び込んで1カ月もの間、重症患者に接していた日本人女性がいた。死と隣り合わせという極限状態で、彼女は何を見たのかーー。

 

「患者の体の清拭、下痢や嘔吐の処理、注射、どの作業にも感染のリスクがありますから、すべて命がけ。実際、患者が暴れてゴーグルがはずれたスタッフもいました」

 

西アフリカのシエラレオネのカイラフン。「国境なき医師団(MSF)」所属の看護師として、大滝潤子さん(38)がエボラ出血熱の流行が最も激しいとされるこの町に着任したのは8月3日のこと。

 

エボラ出血熱は。今年の夏ごろからギニア、リベリア、そしてシエラレオネの3カ国で大流行し始め、現在までにおよそ5千人が死亡。感染力が強く、致死率も50%を超えるといわれる殺人ウイルス感染症だ。感染症予防では世界最高レベルを誇っていたアメリカ国内でさえ、二次感染者が出ている。

 

特効薬もなく、「日本への上陸も避けられないのでは」と国内外がパニックに陥っているなか、1カ月以上も現場に身を置き、看護活動を行った大滝さんの証言は貴重だ。たとえば、2日から21日間とされる潜伏期間だが。

 

「現場の実感としては、3日ほどで発症。重症化する場合は発症から2週間という短期の間に患者は苦しみ、恐怖のなかで亡くなっていきました。小さな子供も女性もお年寄りも、次々に命が奪われていきました。そして、私が大好きな人も……」

 

過去にも紛争地などで看護師として活動してきた大滝さんは、いくつもの修羅場を見てきたが、これほど死が間近な現場はなかった。彼女はシエラレオネでのミッションを終えたとき、かつてない疲労感とともに、「いったい私は、何人の死を見てきたんだろう……」と思ったという。

 

カイラフン市街を抜け、熱帯植物がうっそうと茂るなかに作られた一本道を車でしばらく進むと、やがて何張りもの野営テントで作られたMSFの医療施設がこつ然と姿を現す。人里離れたジャングルのような場所に設営されているのは、エボラ出血熱患者を隔離するためだ。敷地内は2つのエリアに分かれており、ローリスクエリアは防護服の必要はなく、スタッフルームがある。

 

「ふだんの生活も、『ノータッチ』が合言葉で、スタッフ同士でも握手など肌の接触は厳しく禁じられていました。ハグもポーズだけ。食事では大皿料理もグラスのシェアもNG。感染者の体液が経路となるため、トイレも肌の接触部分が少ないよう洋式ではなくて、またぐタイプでした」

 

いっぽう、フェンスで囲まれたハイリスクエリアは隔離病棟で、防護服とゴーグル着用が義務づけられている。ここが病棟看護師として着任した大滝さんの職場だった。

 

「防護服での仕事は1回1時間以内、1日3回までに限られていました。派遣された8月は雨期でしたが、晴れているときは30度を超えるうえに多湿で、防護服を着て2分もすると、汗がどっと出てゴーグルが曇ってしまうほど。必ず2人ペアで、具合が悪くなったときは、すぐにエリアから出なければなりません。急に倒れたりすると、防護服が破れて感染の危険性があるからです」

 

エボラ感染は血液検査で判断するが、そのときの指針となるのがPCRと呼ばれる体内のウイルス量の予測数値。1から40までの数値で予測するが、数値が小さくなるほどウイルス量が高く、40ならばネガティブ(陰性)だ。

 

「(初期症状は)最初は風邪と同じで発熱や頭痛、その後に関節や喉の痛み。それが進むと嘔吐と下痢に苦しみ、悪化すると、多くのケースでしゃっくりが出ていました。出血も、イメージされているように目から血が滴り落ちるわけではなく、鼻や歯茎からジワジワと出血して、口のまわりで乾き、顔に血がこびりつくんです。悲惨な現場でした」

 

大滝さんは9月10日に任期を終え、シエラレオネから出国。久しぶりに母親とスカイプで会話したとき、号泣した。

 

「私自身は次のエボラ関連の要請があれば受ける気でいましたが、母の『絶対にダメ』の言葉で、いったんあきらめました。ただし、これからもミッションは続けたい。次は公衆衛生の修士を取って、国際保健に携わることが目標」

 

すでに次なる新たなステップを踏み出そうとしている大滝さん。きっと数カ月後には世界のどこかで、生と死と向き合いながら奮闘しているに違いない。

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