ネオンの灯がいっせいに瞬きだした夕暮れどきの東京・銀座。その一角、飲食店が軒を連ねるビルの5階に、ひときわ華やかなその店はあった。小さく「会員制」と書かれた扉を開けると、はんなりとした、「おいでやす〜」という京ことばに迎えられる。

 

艶やかな和服姿、柔らかな物腰で現れたのは京都・祇園で長らく人気の芸妓として活躍した、佳つ乃さんだった。ここは彼女が昨年秋にオープンしたクラブ。その名も「佳つ乃」。席数は18ほどの、こぢんまりとした店内。祇園出身のママの店らしく、壁には上品な日本画が飾られている。

 

舞妓、芸妓として、祇園でも一、二の人気を博し、テレビのワイドショーやスポーツ紙などのマスコミをにぎわせた。それは本誌も例外ではない。

 

「『女性自身』?大嫌いどした(苦笑)。『女性自身』だけやおまへんけど。週刊誌は嫌いどす。もう、ろくなこと書かはらしませんでしょ」(佳つ乃さん・以下同)

 

最近も似たようなことがあった。彼女が京都から銀座に移ったことについて、芸妓を円満に引退して、上京したにもかかわらず、一部の雑誌やネットには「祇園を追放された」と書かれたのだ。

 

「もうね、笑うしかおへんのどす(笑)。でも……あんまり好き勝手に書かれるのもいやどすしね。それで……」

 

佳つ乃さんは、かつて嫌っていた本誌に、自らの半生と、これからについて語り始めた。

 

「舞妓はんになったらどうや?」といったのは、実家の近所にあった法衣店の主人だ。少女は、中学卒業を間近に控え、進路を決めあぐねていた。京都市北部で生まれ育った少女には、祇園に関する知識も興味もなかった。一方、法衣店の主人は花街、祇園の常連。なじみの女将から「どっかにかわいい子、いはらへんやろか?」と常々聞かれていた。

 

「べっぴんやし、ぴったりや。話、聞くだけでも一回、行ってみいひんか?」と連れていかれたのは「小田本」という看板を掲げた古い町家。そこは「置屋」と呼ばれる場所だった。和室に通され、慣れない正座をして待つこと数分。現れた着物姿の老女将は、少女の顔をのぞき込むようにして、「辛抱してみはったらどうえ、楽しいえ」と聞いた。

 

いったい何を辛抱するのかもわからなかった。しかし、老女将の「1カ月だけでも、やっておみよし?」という言葉に、軽い気持ちでうなずいた。こうして少女は祇園の住人になった。祇園に入った少女たちは「仕込み」と呼ばれ、「屋形」や「家」と呼ぶ置屋に住み込む。そして、それぞれの置屋の女将から、行儀作法や祇園言葉を徹底的に仕込まれる。

 

「なんでウチは逃げへんかったんかなって考えるとね、やっぱり自分に負けるのが嫌いやったんどすね。仕込みのウチが道の隅っこ歩いているのに、舞妓さんは堂々と真ん中歩いて来はる。すれ違うたびに『こんにちは』って、頭下げて。ウチもきれいな舞妓さんになって後輩に挨拶してもらえる人になりたい、そう思いました」

 

約1年の「仕込み」、さらに1カ月ほどの「見習い」を経て、少女は舞妓になる。ここで初めて芸名もつく。それまで「小田本さんの仕込みさん」と呼ばれていた少女も、晴れて舞妓・佳つ乃になった。16歳だった。佳つ乃さんが芸妓になったころ、日本はちょうどバブル景気に沸いていた。祇園も例に漏れず、毎晩がお祭りのようだった。

 

「忙しおした〜。ある晩、お座敷の予約がビッシリどしたけど、なじみのお客さんが『顔だけ出して』と言わはるから、お座敷とお座敷の合間の15分だけ、そちらの宴会に寄らせていただいて、ちょこっとお酌して回ったんどす。そしたら『これご祝儀』と封筒渡されて。『おおきに』言うていただいたんどすけど、中を見たら50万円も入っていて。本当に驚きました。まだ21〜22歳どしたしね」

 

芸妓としてはまだ半人前の舞妓時代から、芸能マスコミに登場した佳つ乃さんは、先輩のイケズの、格好の標的だった。舞の稽古の開始時間をわざと間違えて教えられるのは序の口で、料理を運んでいるさなか、裾を踏まれることも日常茶飯事。町でいきなり「あんた見てたら幸せそうで腹立つのや!」と顔をしばかれたこともあったという。

 

そんな佳つ乃さんが祇園を出て東京に来た本当の目的は、昼の仕事を始めるためだった。

 

「これからは自分に合ったお昼の仕事を立ち上げていこうと思っています。でも、それをするにも、まずは生活していかないとだめどすし。中学出てずっとこの世界で生きてきて、私にすぐできることって、祇園町で教わってきたことを生かして、夜のお仕事しか思いつきませんどした。でも、長くても5年までって決めてます。そしたら、そのときが私の祇園町からの卒業なのかもしれません」

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