沖縄本土復帰50年 集団自決では祖母が祖父に「殺して」とせがんだ
画像を見る 集団自決について調査を進めてきた宮城さん

 

■祖父の七回忌のとき祖母は泣き通しだった。宮城さんは祖母の涙の意味を考え続けた

 

「米軍が上陸した26日、田中さんはどこの壕にいらしたんですか?」

 

宮城さんの、座間味での先月の聞取り調査。集団自決を生き延びた田中さんの、あの日の行動を確認していた。

 

「私は母と祖母と妹と、海のそば、『ユヒナのガマ(壕)』にいた。それで、同じそのガマに家族と逃げてきた学校の先生が、手りゅう弾を持っていて。『一緒に死にたい人は近くに来なさい』と。私は母たちに泣きながら『さよなら』と言い残し、先生の近くに。母が私を引き止めることは、ありませんでした」

 

徹底した教育は、母子の絆をも引き裂いてしまったのか。

 

宮城さんは語る。

 

「ほかの壕では、目の前に米軍が現れるなどして、ほぼ突発的に大多数の人たちが自決を選んでいる。ところが、田中さんがいたのは中心部から遠く離れた集落の壕。だから、米兵の姿も見えず、多くの人が比較的、冷静だったんでしょう。ただ、教師というのは日本軍の教えを率先して守る立場。かつ、その先生はすでにけがを負っていたという別の人の証言も。だからおそらくは『もう助からない』と、自決を急いだんでしょう」

 

意を決して死を選んだ田中さん。だが、教師の持っていた手りゅう弾は不発だった。

 

「先生が何度もたたいたのに、手りゅう弾は破裂しませんでした。そこで、先生は剃刀を研ぎ始めましたが、そのころには私もわれに返って、怖くなって逃げました。おかげさまで、いまもこうして元気です」

 

生き延びることができたことを、改めて喜んだ田中さん。あの日、死にそびれたおかげで、彼女は子や孫を持つこともできた。宮城さんも「本当に、本当によかったですね」と、うれしそうに何度もうなずいて応えていた。

 

だがいっぽうで、戦争で傷ついた心は、簡単に癒えることがないことも、痛いほどわかっていた。それは終戦から32年たった1977年。集団自決の犠牲者たちの三十三回忌の法要でのこと。

 

「沖縄の三十三回忌ってご存じですか? 『ウワイスーコー(終わり焼香)』と呼んで、一種のお祝いなんです。お香典も祝儀袋に入れます。豚の頭をお供えし、紅白の饅頭も飾ります。祖母の家もあの日、他界した息子の法要を執り行いましたが、じつは祖父の七回忌とも重なっていて……」

 

本来なら“祝い”の席で祖母は、最初から最後まで泣き通しだった。宮城さんはそんな祖母の姿をじっと見つめながら「おばあのこの涙の意味はなんなんだろう?」と考え続けたという。

 

宮城さんは調査のなかで、戦時中、米兵を前にパニックになった祖母が祖父に「早く殺して」とせがんだことを知っていた。

 

祖母に次いで、祖父は3人の子どもの喉を切り、最後に自分自身の首に刃を当てた。5人の血は壕の外にまで流れ出ていたという。子供のうち、息子は絶命した。

 

「それで、私なりにわかったんです。祖母は、生前の祖父をときには『人殺し』とまでなじり続けていた。祖母のその言葉は、本当は自分に向けたものだったんじゃないか、って。誰にぶつけたらいいのかわからない怒りや悲しみを抱え込んで、祖父をなじることで、どうにか気持ちを保とうとしていたんじゃないでしょうか。それをよくわかっていたから、祖父も言われるがまま、何も反論しなかったように、私には思えるんです」

 

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