夫・椎名誠も舌を巻く“冒険家”で作家の渡辺一枝さん「チベットの鳥葬に父の最期を重ねて」
画像を見る 2001年、チベットのグゲ王国遺跡で。自分の足でどこへでも行った

 

■チベットの鳥葬に父の最期を重ねて

 

母が亡くなった翌年、生家を探すためハルビンを訪ねた。

 

生まれた場所に戻れば、父が見た風景や、母から聞くことのできなかった思いを知ることができるのではないかと思ったからだ。

 

「生家を探して歩いていると、ひとりの老女がアパートから出てきてね。『お茶を飲んで行きなさい』と招き入れてくれたんです。私は胸がいっぱいになって、『私たちの国は中国のみなさんに本当に申し訳ないことをしました』と詫びたら、『それはあなたのせいではない。日本の軍部がやったこと。ここは、あなたの故郷です。いつでも訪ねていらっしゃい』と言ってくれたんです」

 

この老女のひと言で、侵略地で生まれた自分の存在を肯定できるようになっていった。

 

「きっと父も母も、当時の日本にはない自由な空気を求めて満州に渡ったのだと思います。ふたりとも必死にあの時代と戦ったのだろうと」

 

このあと何度もハルビンを訪ねた一枝さんは、満州から戻ることができなかった残留婦人たちに面会を重ね、著書『ハルビン回帰行』(朝日新聞出版)に残している。彼女たちに、亡き母や自分自身を重ねたのだ。

 

憧れの地、チベットにも降り立った。初めて訪れた地であるにもかかわらず、地元の人たちとの会話が心地よく、飾らない自分でいられたのがうれしかったという。以後、何十回とチベットにも通うことになる。

 

一枝さんの自宅には、地下に「チベット部屋」と彼女が呼ぶ部屋がある。一歩中に入ると、そこは文字どおり小さなチベット。

 

一枝さんが行くたびに買いそろえた調度品が並び、正面にはチベット式の祭壇。壁には、所せましと並べられたチベット関係の書と、これまで現地で撮影した写真がきちんと整理され並べられていた。

 

「毎朝、祭壇のお水をかえて、五体投地というチベット式のお祈りをするんです。コロナ前は、チベットのお正月になると入りきれないくらいの在日チベット人を招いて、お祝いしていたのよ」

 

50歳を迎える年には、チベットの標高4,500メートルのチャンタン高原を半年かけて馬で行くという前代未聞の旅を成功させた。

 

「クルマだと道路があるところしか行けない。馬でなら、道がない場所も行けるから、テントや小さな集落を訪ねて地元の人たちの話を聞けると思ったんです」

 

馬でチベットを旅していた半年間、一枝さんと音信不通になった椎名さん。

 

人づてに「日本人女性がチベットを馬で走り回っている」と噂を聞き、「おっかあは生きている」と胸をなで下ろしたという逸話もあるほどだ。この体験は『チベットを馬で行く』(文藝春秋)に記されている。

 

チベットでは、忘れがたい経験をいくつもしたが、なかでも心に残るのが友人の“鳥葬”に立ち会えたことだった。

 

「チベットでは、人が亡くなったら鳥葬するのが一般的なんです。三日三晩お祈りをして霊魂が体から抜けたら、亡きがらはお寺の鳥葬場に運んで、ハゲワシたちに“布施”として分け与えるの。そういう施しの精神って素敵でしょう」

 

鳥葬場で、亡きがらがふわっとハゲワシたちに持ち上げられたのを見たとき一枝さんは「きれいだ」と感じたという。

 

初めて「鳥葬」という言葉を知ったのは中学生のときだった。新聞で読んだ「チベット人は鳥葬の民である」という記事から目が離せなかった。

 

「ちょうどそのころ、父はハルビンの湿地帯で戦友を助けようとして、沼地に足を取られて亡くなった、と母が知人に話すのを聞いて知ったんです」

 

遺体が見つからないまま、一枝さん5歳のときに父の葬儀は行われていた。

 

「だから鳥葬の記事を読んだとき、〈父もこうだったのかも〉って思って、慰められたのかもしれません。父の亡きがらも、鳥や獣のおなかを満たしたのであれば、それでいいのかもしれないって」

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