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長崎県に生まれ、看板店、ちり紙交換、ダスキン配達などの職業を経て33歳で漫画家になった蛭子能収(67)。これまで人から相談を受けたことは皆無だったという彼が、本誌読者からの相談に答える!

 

【Q】「高校受験のあとから、息子が父親に反抗するように。今では、些細なことで口論に。親子が仲良くする方法はないでしょうか? また、蛭子さんは父親に反抗していたのでしょうか?」(フローラさん・49歳・岩手県・主婦)

 

【A】「親と子は、仲良くなくてもいい」(蛭子能収)

 

オレの父が死んだのは、高校生のとき……あれ中学校……、いや小学校だったかな……。よく覚えていませんね。遠洋漁業の漁師だったから、1カ月半は船に乗っていて、4,5日は家にいるという繰り返し。ほとんどいませんでしたからね。恐かったとか、やさしかったとかの思い出は、ほとんどありません。

 

オレの右手の小指に傷があるんですが、これは、小学校のときの夏休みに、父と釣りに行ったときにできたものです。釣りといっても「はえ縄」という方法で、長くて太い縄に、何百本も細い糸がぶらさがっていて、そこに針がついているんです。そのはえ縄を海に流していたら、一本の針が、俺の小指に刺さってしまって。「いたい!」と叫ぶと同時に、海にスゴイ勢いで、どんどん引き込まれていきそうになったんです。

 

そのとき、父親が、バーンと包丁で細い糸を切ったんですよね。あれだけ緊迫した状況だったら、普通は、太い縄を切ると思うんです。でも、父はそれを切ったら、海に流した「はえ縄」がなくなってしまうと一瞬で判断して、細い糸を切ったんですよね。それだったら、糸1本損するだけですから。いや〜、頭いいなと今でも思います。

 

母親に対しての反抗といえば、23歳で上京したことですかね。高校を卒業して看板屋に勤めていましたが「このままでは自由がない」と東京に行くことを決めたんです。当時は、母親とふたり暮らしでしたから、オレがいなくなったら母親が困ることはわかっていたんですけどね。でも、このまま長崎にいるとダメになると、出発する前の日に母親に言ったんです。最初は、すごく戸惑っていたけど、最後には、快く送りだしてくれました。

 

それから、俺がテレビに出るようになって、所沢に家を建てた頃、母がやってことがあるんです。これまで一度も東京にきたことがない母が、1カ月くらいずっと家にいたんですよね。しかも、なかなか帰るといわないんですよね。オレの前の嫁さんも、「お母さん、いつ帰るのかな?」と、すごく困っていて、オレに訴えるんですよね。オレは、居たいだけいればいいと思ったんですが……、やっぱり、女房が神経をつかって大変そうだったんですよね。だから、母に笑いながらいったんです。

「母ちゃん、いつ帰るね?」

「もう、そろそろ帰ろうかね」

あの時の母の顔を、オレは、ずっと覚えているでしょうね。その後、寝台特急で長崎に帰っていきましたが、死んだのは、それからすぐでした。

 

あっ、親子の相談でしたよね。そもそも親子が仲良くしようと思うからいけないんですよ。子どもには、なにも期待しなければいいんです。しかも、親の存在なんて、オレの小指の先の傷みたいなもの。小さくても、なにか伝えられたらいいだけなんですよ。

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