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(撮影:加藤順子)

 

「亡くなった子供たちも、私たちも、また切り捨てられたんですね……」

 

2011年3月11日に発生した東日本大震災の津波で、全校児童の約7割にあたる74人もが犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校。悲劇からまる7年を目前にした2月24日、33年の歴史に幕を下ろす閉校式が行われた。

 

震災当時、同校5年生だった二女の紫桃千聖さん(享年11)を亡くした母・さよみさん(51)は、式の後半に上映されたスライドで、04年入学までの卒業アルバムしか映されなかったことを知り、怒りを抑えるように呟いた。

 

「震災以降の歴史は、無視されたも同然です」

 

14時46分に地震が発生した「あの日」。津波は校舎にも押し寄せた。その後、大川小では別の小学校を間借りして授業するなどしていたが、児童数は29人まで減少し、閉校に至った。旧校舎は、「震災遺構」として保存されることが、すでに16年春に決まっている。

 

「7年たって、私たち親も家族も、いろんなことに向き合わなければならない。閉校式に参加するかしないかも、大事な節目なので、長男とも長女とも相談して個々で決めました。彼らにとっては母校なので『同級生と行くよ』と言うから、私は『どうぞ、行ってらっしゃい』と送り出しました」

 

さよみさんの言うように、かつては子供たちの元気な声で溢れていた大川小の閉校は大きな節目ではあるが、遺族にとっては震災が終わったわけではない。現に、14年3月に23人の児童たちの遺族である19家族が起こした裁判は、いまも継続中だ。紫桃さんら遺族が宮城県と石巻市を相手に約23億円の損害賠償を求めて起こした民事訴訟では、16年10月に県と市に約14億3千万円の支払いを命じる一審判決が出たが、被告、原告ともに控訴している。

 

地震発生から津波が襲うまでの51分間。教師たちの判断で校庭で待機した挙げ句、津波が押し寄せる堤防方向へと移動させられ、命を落としたわが子たち。なぜ、すぐ背後の裏山に逃げなかったのか。どの親も抱く「空白の51分間に何が起きていたのか」という疑問に、一審判決は何も答えてはいなかった。その裁判の控訴審判決が、この4月26日に出る――。

 

「なんで、あのとき、私は千聖を迎えに行かなかったんだろう。入学式のときに、『学校は児童の命に責任を持ちません』って言ってくれれば、すぐに迎えに行ってたのに。あのとき、51分間も校庭で待たずに、有無を言わさず裏山に避難誘導されていれば、わが子は助かった――」

 

紫桃さんら遺族たちは怒りのなかで、説明会の開催を訴え、ほぼ1カ月後の4月9日になって、ようやく第1回の保護者説明会が行われた。ここには、当日学校にいて唯一生き延びた男性教師のA先生も出席した。

 

「助けられなくて本当に申し訳ありませんでした。すいませんでした……」

 

この後、A先生は「波をかぶったが、ひとりの男子児童を助けて山に登り、助かった」という旨の説明を途切れ、途切れにしただけだった。その後は「体調を崩し自宅療養中」とのことで、裁判中を含めて、今日まで顔を見せていない。しかし、実際に当日、A先生が逃げ込んだ自動車整備工場の社長は「A先生も児童も服装はきれいで濡れていなかった。波はかぶってないと思います」と証言しており(本誌既報)、食い違う。A先生の「波をかぶった」などの証言は「偽証だったのではないか」という見方も広がっているのだ。

 

さらに、当時の校長の、以下のような問題発言もあった。

「説明会の約10日前の震災後初の登校日、校長は子供たちに『笑顔がいっぱいの学校を作ろう』と語りかけたそうです。この言葉で、私たちの子は、亡くなった子供たちは切り捨てられたんだと思いました」

 

さよみさんが、冒頭、閉校式を受けて「また切り捨てられた」と発言したのには、こんな前段があったのだ。

 

判決を1カ月半後に控えたいま、さよみさんと夫の隆洋さん(53)には一層、「勝たねばならない」という思いが強い。

 

「親であれば、ふつう、子供に『先生の言うことをよく聞きなさい』と教えるでしょう。そう教えたのが正しかったのか、そういう自問自答も入っているんです」

 

(取材:鈴木利宗、加藤順子)

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