夫・椎名誠も舌を巻く“冒険家”で作家の渡辺一枝さん「チベットの鳥葬に父の最期を重ねて」
画像を見る ハルビンやチベット、福島の人々の故郷の記憶を丹念に記録してきた(写真:落合由利子)

 

「“チベットさん”というあだ名が付くほどでね(笑)。当時はチベットに関する情報なんてほとんどない時代でしたけど、なぜかたまらなく魅力的に感じたんです」

 

そんな秘境へ憧れる気持ちが、運命の人、椎名さんとの縁を結ぶことになる。

 

「友人から、『おもしろいやつがいる』と紹介されたのが椎名だったんです。当時からチベットや中央アジアに夢中だった私は、幻の王国と言われる“楼蘭”の話をしたの。そしたら唯一知っていたのが椎名でね(笑)。それで盛り上がって。そういう本をたくさん持っている、と言ったら、じゃあ読みたいから君のうちに行っていいかと。それでお付き合いするようになったんです」

 

3年ほどの交際を経て、23歳で結婚した一枝さん。頭を悩ませたのは仕事と家庭の両立だった。

 

「当時、勤めていた建築事務所は、寿退社が当たり前。私は、就職してわりとすぐ結婚したので、しばらく勤めていたんだけど、妊娠がわかって。この職場では長く働けない。どうしようか、と悩んでいたんです」

 

そんなとき、手を差し伸べてくれたのが同居していた母だった。

 

「じゃあ、この家を建て増しして、ここで保育園をやりましょう」

 

母はそう言って自宅を増築し、保育園を設立してしまう。

 

「母も、幼い私をあちこち預けながら苦労して働いていたから、保育園の重要性を感じていたんだと思います」

 

一枝さんは、保育士の資格を取得。生まれた子どもを預けながら保育士として働き始めた。

 

「じつは、保育士になるまで小さい子どもは苦手でした。でも実際に関わってみたら、ものすごく楽しくて。赤ん坊って、言葉も話せないし歩けもしないのに、すごい勢いでさまざまなものを吸収していくでしょう。その過程に関われることに喜びを感じたんです」

 

一方で、2人目の子どもが生まれた矢先、椎名さんから、勤めていた会社を「辞めたい」と切り出される。

 

「私、『いいんじゃない』って言ったの。クズ拾いでもなんでもやれば生活できる。私も保母をしているんだから、って。だって気持ちよく働いてほしいじゃない」

 

一枝さんの理解もあってか、そのあと椎名さんは、瞬く間に売れっ子作家の階段を駆け上がった。

 

長期の取材旅行で留守にすることも多い椎名さんだったが、自宅にいるときは子どもの面倒をよく見てくれるよき父親だった。

 

保育士と子育てを両立させ、充実した日々を送っていた一枝さんに転機が訪れたのは41歳のとき。

 

「半年ほど闘病生活を送っていた母が亡くなったんです。幼いころは、父の出征を止めなかった母に反発心もあったけど、ようやく『ハルビンのこと、ゆっくり聞かせてね』と言える関係になっていたのに」

 

いつか母と一緒に歩きたい、と思っていた、故郷ハルビン。一枝さんは、母の死をキッカケにハルビンへ行くことを決意。そのためには時間が必要だった。

 

「すごく迷いました。でも、椎名が世界を旅する様子を見て、私も広い世界を見たいと思うようになっていたし、友人から『あなたがいなくても地球は回るよ』と言われて(笑)。それで保育士を辞める決心がついたんです」

 

一枝さんは、当時受け持っていた子どもたちが卒園するのを見届けて、18年務めた保育士の仕事に終止符を打つ。42歳の春だった。

 

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