男たちは妻や幼い我が子を手にかけ…沖縄を襲った集団自決の真実
画像を見る 集団自決について調査を進めてきた宮城さん

 

■祖父がヤギを潰したときの祖母の恐ろしい一言

 

終戦から4年後の1949年。宮城さんは座間味島に、5人きょうだいの長女として生まれた。

 

「小学生のころは、学校が終わると決まって母の実家、祖父母の家に。おやつに、祖母がふかしてくれたお芋をいただくのが日課でした。祖父母は私のこと、とってもかわいがってくれましたよ」

 

祖母はいつも、三角に折ったハンカチを首に巻いていた。首元の傷跡を覆い隠すためだった。

 

「祖母の首にはポッカリと穴が開いていて。そこにカニューレという、呼吸を助ける管が入っていました。声帯も傷ついて、祖母はほとんど声を出せません。首元を手で押さえ、絞り出すように口を動かして、かろうじて、かすかな声を発していました」

 

祖母ほど目立つものではないが、同じような傷が祖父、それに叔母の首元にもあった。

 

「子ども心に『あの傷はいったいなんだろう?』とずっと思っていました。でも同時に『聞いてはいけない』という自制心も働きました」

 

聞いてはいけない、と思うのには理由があった。物心つくころ、宮城家の台所は、島の女性たちが集うサロンのような場所だった。

 

「母のもとに、おばさんたちが集まってきては、いろんな話をしていて。話題の1つが戦争のことでした。『誰それは、こんなふうにして玉砕した』『いや、あの人は夫に首を切られて死んだはずよ』と」

 

そんな大人たちの話を聞きかじって育ったから、祖母たちに首の傷のことは、聞けなかったのだ。同時に宮城さんは、詳細まではわからなくとも、多くの島の人たちが戦時中、自ら死を選んだということも、うすうす知っていた。

 

やがて、中学卒業を機に島を出た宮城さんは、沖縄本島にある寮を備えた県立糸満高校に進んだ。そのクラスメートとのやり取りで、宮城さんは強いショックを受ける。

 

「あれは、1年生の1学期だったと思います。本島南部、糸満も沖縄戦の激戦地でしたから、ほとんどの級友が、家族を戦争で亡くしていた。それで私、聞いたんです、『あなたの家族は、どんなふうにして自決したの?』と。当時は自決ではなく『玉砕』という言葉を使っていたかもしれません。そのときまで、私は戦争で亡くなった人というのは全員、集団自決の犠牲者と思い込んでいたんです。でも、級友たちは誰ひとりとして、集団自決の意味をわからなかったんです」

 

以来、「集団自決とは、なんだったのか? なぜ座間味でそれが起きたのか?」という疑問が、宮城さんの中でくすぶり続けた。

 

いっぽうで、宮城さんには幼き日の、忘れられない記憶がある。それは小学生時代。いつものように祖父母の家で遊んでいたときのこと。裏庭から、不穏なヤギの鳴き声が聞こえてきた。

 

「行ってみると、祖父がヤギを1頭、食用に潰すところでした」

 

祖父はヤギの後ろ足を縛り、宙吊りにすると、おもむろにその首を切った。滴り落ちた血が、地面に置かれたバケツにみるみるたまっていくのが見えたという。

 

「日ごろ、大人は残酷なシーンを子どもの目に触れさせないようにしていたので、私はドキドキしながら隠れて見ていました。すると突然、背後から祖母に声をかけられたんです。咄嗟に『おばあに叱られる!』と思い、身をすくめました。でも次の瞬間、祖母は私を叱ることなく、冷たい目で祖父を見ながら言ったんです。『この人は、おじいは首切り専門だから』と」

 

恐ろしい言葉もさることながら、顔を上げた祖父の、いまにも泣きだしそうな、見たこともない悲しげな表情に、幼かった宮城さんは身が震える思いだった。

 

「あのときの祖母の声、それに祖父のあの顔……、何十年もたったいまも、忘れることができません。その後も祖母は、同じように祖父をなじり続けました。でも、それに対して祖父は一切、反論しないんです。あの日と同じように、悲しげな顔をするだけなんです」

 

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