「我が家にお金がなくなると、いつもピョン吉が助けてくれるの」と語るのは『ど根性ガエル』の原作者・吉沢やすみ先生(65)の妻・文子さん(65)。
’72年から放映が始まった大ヒットアニメ『ど根性ガエル』が今、松山ケンイチ主演の実写ドラマとなって話題を呼んでいる。ピョン吉やひろしなど、ユニークなキャラクターを生み出した吉沢先生と文子さんは、「泣いて、笑って、ケンカして」の波瀾万丈の人生を歩んできた−−。
『ど根性ガエル』が『少年ジャンプ』で連載が始まったのは吉沢先生が20歳のとき。23歳のときに同い年の文子さんと結婚。’74年に長女、’75年に長男が生まれた。東京都練馬区の閑静な住宅地に一軒家も建て、近くのマンションには仕事場を構えるなど、まさに順風満帆だった。
サラリーマンの平均年収が200万円程度だった当時の吉沢先生の年収は5千万〜6千万円。文子さんは専業主婦として子育てに充実した日々を送っていたが……。絶頂期にかげりが見えてきたのは、長女、長男が小学校に上がったころ。妻の横で居心地悪そうな吉沢先生が語る。
「6年半で『少年ジャンプ』の連載が終了した後、いくつか連載しましたが『ど根性ガエル』を超えるものができなかったんですね。しまいには真っ白な用紙を見ると吐き気がして、マンガも描けなくなってね。それで仕事を放って逃げちゃったんです」
向かった先は、池袋にあるデパートの屋上だった。
「飛び降りたらすべて楽になるかなと、まずは靴下を脱いで落としてみたんです。そしたら、やっぱり怖いんですよ。それでポケットに入っていた3万円で麻雀やって、それが尽きたら家に帰ろうと。でも思いのほか勝っちゃってね。それでサウナに泊まっては雀荘を転々として1カ月半、家に帰らなかったんです」(吉沢先生)
1カ月半後、吉沢先生が戻ってきたときの所持金は、千円札1枚だけ。文子さんは夫を優しく迎え入れたという。
「怒るよりも、よくぞ無事で、と思ったんです。その後も、何度も失踪していますが、私1人では子育てできませんし、私がいなければ、パパがダメになってしまうという思いも。一度、朝までパパを捜して雀荘を回っていたとき、一緒に捜してくれた友達に『もう離婚したほうがいいと』と言われたことが。涙がボロボロ出てきましたが、そう言われるとなんか、逆に火が付いてしまうんですね」(文子さん)
そこから、さらに文子さんの苦労は続く。貯金がとうとう底をついたのだ。看護婦の資格を持っていた文子さんは近所の医院で、朝から晩まで働いて家計を支えた。吉沢先生も駅の清掃作業員やデパートの警備員をしたが、その稼いだ金は、雀荘とスナックに消えていった。
「近所で買い物をしていると、雀荘の人が『先生にお金を貸しているんだけど』と声をかけられることも。スナックから朝帰りしてきたパパが、私の名前を間違えて『ミヨちゃん!』って、後ろから抱きしめてきたことも。遊べないようにお小遣いをあげないと、今度は消費者金融から借りてきちゃうんです。でも、憎めないんですよね」(文子さん)
長女、長男が大学進学を控えたころ、このままでは入学金や授業料が払えない危機が吉沢家にあった。それを救ったのがピョン吉だった。
「’93年のドラマ『ひとつ屋根の下』で江口洋介さんが、ピョン吉が描かれたTシャツを着たことで注目されて、グッズが売れるように。そのお金が入り、なんとか子どもたちの学費が払えたんです」(文子さん)
その後も子どもたちの結婚式の費用を捻出できないと苦しんでいたときにも、ピョン吉やひろしが『ソルマック』胃腸薬のCMキャラクターに抜擢されて助けてくれた。ところが、キャラクター使用料が入ると、夫の雀荘とスナック通いが増える悪循環に。転機は58歳を迎えていた文子さんを襲った病いだった。
「長年の過労がたたって、喘息発作で倒れて救急車で運ばれたんです。そこでほかのところも詳しく診てもらったら、肺と肺の間に腫瘍が見つかったんです。そのまま放っておいたら悪性になっていたものでした。その病気をしたあとに、『お前だからここまでついてきてくれたんだよな』と言われて、私もなんだかホッとしました。あれ以来、スナック通いはずいぶん減りました」(文子さん)
実は、今回の実写ドラマも、これから老後の資金に不安がよぎった矢先のことだとか。
「原稿料がいくら入るかなど知りません。でも、ドラマの初回はお祭り騒ぎ。家族や友達を自宅に呼んで大騒ぎしてみました。楽しかったですね。だらしない人で、これまで何度も実家に帰ろうかとか思いましたが、やっぱり、これだけ多くの人に愛される『ど根性ガエル』を作ったパパは、すごい人なんだとあらためてほれ直しました」(文子さん)