9月28日からスタートする朝の連続テレビ小説『あさが来た』(NHK)のヒロイン・今井あさは、実存した女性実業家・広岡浅子がモデル。何の不自由もなく育った三井家の令嬢が、不幸にも“ダメ夫”のもとに嫁ぎ、そこで浅子は一念発起。炭鉱、銀行と次々と事業を成功させていく。浅子は“教育者”としての一面も持ち、初の女子大学設立や、また大同生命保険の創設に尽力した。
女性実業家のさきがけとして、激動の明治時代を駆け抜けた広岡浅子。その“豪快ぶり”を、ドラマの原案本『小説土佐堀川』(潮出版)の著者・古川智映子さん、産経新聞紙上で浅子の半生を連載した石野伸子さんの証言を基に、プレーバックしてみよう!
【三井家のご令嬢は相撲好きのおてんば娘!】
1849年、京都油小路の三井家の四女として生まれた浅子。“ご令嬢”にはほど遠く、ヘビを捕まえては振り回し、まげを結っては男の子と相撲をとるのが好きなおてんば娘だった。
「しかも、それを母親にたしなめられると、ある朝、まげの根元からばっさりと髪を切ってしまったそうです」(古川さん)
【『女は本を読むな』と言われ猛反発!】
三井家の男子は「学問を一切怠ってはならない」と教えられたが、女子は裁縫に生け花、茶の湯、琴など“夫や老人を喜ばせる”ための芸事のお稽古が優先された。そこに疑問を覚えた浅子は、男子が四書五経を素読するのを、ふすま越しに盗み聞きするなどして歯向かった。そのせいで13歳のとき、一切の読書を禁じられる。
【親が決めた結婚を“子の道”と我慢した】
浅子は2歳のときに親に将来の相手を決められた。大阪の豪商・加島屋当主の次男・広岡信五郎の許嫁だった。実家に戻れば「尼僧にする」と言われた。
「『親が一度約束した結婚に背くのは、子の道に背く』と、何があっても逃げない覚悟を持っていました」(石野さん)
【『この家業はダメ』と早くから危機を察知】
夫の信五郎は家業を番頭に任せきり。日ごと謡曲・茶の湯に興じる絵に描いたようなボンボンだった。そのずさんな経営に、一人だけ危機感を持っていたのが浅子だった。浅子は寝る間を惜しんで簿記や算術を独学で学んだ。
「経営の勉強をする妻など、当時は許されなかったでしょう。その点、信五郎は柔軟で、暴れ馬のような浅子を応援していました」(古川さん)
【借金返済に窮し頭を下げて国中回った】
加島屋は、全国の藩に多額の貸し付け(現在の価値で総額4千500億円ともいわれている)を行っていた。ところが結婚3年後に、日本は明治維新を迎える。返済が焦げつき、加島屋も金策に窮する。返済の猶予を頼みに東京へも出かけた。何時間も待たされた揚げ句「主人は留守」の一言で帰されることまであったが、浅子は音を上げなかった。
「宇和島藩を訪ねたときは、足軽部屋に追いやられ、いかつい男たちの中で一晩過ごしたそうです。でも浅子の毅然とした態度に、最後には相手も根負けしたとか」(石野さん)
【『跡取りを産んで』と“代理母”を頼んだ】
浅子は28歳で長女・亀子を出産したが、その後、子宝には恵まれなかった。家を守るには男子が必要と、三井家時代から長年お供をしていたムメ(通称・小藤)に“代理母”を頼む。ムメは男の子(後に大同生命4代目社長)が生まれるまで、4人出産した。浅子はムメに十分な財産を遺したという。
【女性たちにも職業訓練を行った】
浅子は40歳のときに「加島銀行」設立に関わる。当時女性の仕事といえば、女工や女給、子守りなどに限られていたが、浅子は女子行員の採用に踏み切り、基礎学力や接客の訓練をしたとも。夫・信五郎も浅子に感化されて経営能力を発揮、尼崎紡績(ユニチカ)の初代社長となる。