「突然現れた9歳下の青年の思いに、47歳の浅子は心ときめかせたのかもしれません。それまでどんな人が寄付を求めてやって来ても門前払いだったのに、最終的には彼の来意を受け入れ、5千円を彼の夢に使ったのですからね。5千円はいまのお金でいえば1億円近くになります」
こう語るのは、著書に『広岡浅子 逆境に負けない言葉』(イースト・プレス)などがある歴史家の坂本優二さん。NHK連続テレビ小説『あさが来た』のモデルである広岡浅子が“1億円貢いだ”そのお相手とは、日本女子大学創立者で、初代校長となった成瀬仁蔵のこと。
ドラマでは成澤泉という名で登場し、イケメン俳優の瀬戸康史(27)が演じているが、この“ナルさま”が、大物実業家となった“あさ”のハートを射止めることができたのは、なぜだろうか−−。
成瀬仁蔵が生まれたのは1858年、長州藩(現・山口県)。下級武士に属する家で、父・小右衛門は藩の書記官をつとめた教育家だった。仁蔵は県の教員養成所を卒業後、小学校の教師となる。19歳のころ、宣教師・沢山保羅に会い大阪でキリスト教(プロテスタント)の洗礼を受けた。’78年、大阪に新設された梅花女学校(現・梅花女子大学)の主任教師となったが、その開校式での仁蔵の発言が次のように残っている。
《人は女性より生まれ、母の教育を受ける。愛をもって養育すればその子は愛に満ちた子となり、悪をもって養育すれば悪となる。だから、女性は文明開化の基礎といえる》(中嶌邦著『成瀬仁蔵』より)
’82年からは奈良、新潟の教会で牧師を務める。そして’87年、新潟女学校の初代校長に就任した。この2つの女学校時代に、理想の女子教育として、すでに「女子大学設立」の青写真ができあがっていたのではないかと前出の坂本さんはみている。その後、女子大学の実現のため米国留学をして教育学、社会学、宗教学を学び、帰国した仁蔵が真っ先に向かったのは、銀行経営などで手腕を振るっていた“女性の成功者”のもとだった。
「帰国後、いざ浅子に謁見した仁蔵ですが、最初は賛同を得られませんでした。それまでに何人もの人間に『大学をつくりたい』と寄付を打診されていましたから、浅子はかなりガードが堅かったのです」(坂本さん・以下同)
しかし、そのとき浅子に手渡したとされる仁蔵の著書『女子教育』が、浅子の心を動かした。涙を流して感激したというのである。
《繰り返して読みましたことが三回、先生の主義について、ご熱心なることは、その書によくあらわれていて、私はこれを読んで、感涙が止まらなかったくらいでした》(日本女子大学校での講話より)
では、浅子は仁蔵のどのような“主義”に共鳴したのだろうか。
「浅子はすでに実業家として活躍していましたが、女性の地位の“限界”も感じていたはずです。当時は会社や団体の代表者の名前は、男性でなければ信用されなかった。いくら突出した商才があっても女性の浅子は常に“陰の存在”にすぎなかったのです。そのむなしさを、神の下の平等をうたった仁蔵の思想が埋めてくれたのでしょう」
さらに、一度、女子教育のことを話しだせば、必ず長談義になったという熱血漢ぶりも、浅子を喜ばせた。
「我を忘れて話す仁蔵を、周囲は“成瀬の長尻”と呼んであきれていました。歩きながら読書し、食事は素早く済ませられるそばかうどん。自転車で街を駆け回る変わり者の仁蔵に、浅子は自分と似たものを感じたのではないかと。それゆえ一度仁蔵に賛同するや、一気に女子大学設立への資金集めに、共に奔走し始めたのです。ただ、設立には30万円以上(現在の60億円相当)という途方もないお金が必要だった……」
しかし海千山千の浅子は、面識があった当時の総理大臣・伊藤博文をはじめ、西園寺公望、大隈重信ら大物政治家たちの賛同をえることに成功した。
「浅子自身も寄付金5千円(1億円相当)を出し、実家である三井家からは多額の援助と学校用地として東京・目白台の土地の寄贈を引き出しました。仁蔵が絵空事のように描いていた女子大学設立の夢が、浅子のすぐれた資金調達力で実現したのです」
これほどまでに“馬の合った”浅子と仁蔵、お互いに恋慕の情を抱くことはなかったのだろうか。
「仁蔵は20歳のころに結婚した妻との間に子どもはなく、このころに離婚しています。それは『家庭を取るか、夢を取るか』という選択を迫られてのものだったようです。男女の恋愛関係はなかったと思います」
ドラマではどのように展開するのか、最後まで目が離せない!