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「幼少期は『親のために男として結婚して、子どもを作って生きていくのがいいのかな。親が死んでから女の子になるとしたら、年齢的にかわいい女の子になれないしな。それじゃあ、自分のために生きたほうがいいのかな……』って、ずっとそればっかり考えていました」

 

そう語るのは、隔週連載『中山秀征の語り合いたい人』第61回のゲスト・タレントで実業家のはるな愛(43)。大阪では有名なアイドル系美形ニューハーフだった彼女。24歳で上京し、三軒茶屋で小さなバーを営みながら努力を続け、’08年に大ブレーク。無名時代から親交のある中山は、はるなの大恩人だという。彼女の経営する鉄板焼き店「大三」で、久々に“語り合い”スタートです!

 

中山「あらためて聞きたいんだけど、賢示(はるなの本名・大西賢示)は男として生まれたけど、自分は女だって小さいころから思ってたんだよね?」

 

はるな「はい。『女の子になりたい』というより、『女の子になるものだ』と思っていました。でも、ランドセルは黒いし、『男らしくしろ』って無理やり少年野球をやらされるし、どんどん男を強要される現実に、『私はやっぱり男じゃなきゃダメなんだ』とお先真っ暗になっていましたね……」

 

中山「LGBT(セクシャルマイノリティ)ではない僕が子どものときは、そういう葛藤はなかった。『自分の性別が違う』って思ったことが一度もなかったから、すごく思い悩んだんだろうなって思うよ」

 

はるな「でも、一度は女の子として生きてみないと、ずっとモヤモヤすると思って。高校1年生のとき、学校をサボって付き合っていた男の子と会うようになったんですね。そしたら、親に学校をサボってるのがバレてしまった。父はすぐ手が出る人だったから、人目があるファミリーレストランで話そうと思って、『これから女として生きていきたい』と言ったんです。父はナイフをバンッとテーブルに突き刺して、泣きながら、『わかった。そこまで思ってるならもういい。男なんだから後悔すんなよ。とことんやれ』って。私がそこまで言ったってことは本気なんだってわかったみたい」

 

中山「賢示はその後も家にはいたの?」

 

はるな「いえ、1週間くらいで家を出たんです。ニューハーフのお姉さんのところに弟子入りして、ジョーダン・パブという大阪のショーパブで働き始めました。『親には絶対に迷惑かけずに自分で食べていく』って決めていたので」

 

中山「そのころ手術は一般的になってたの?」

 

はるな「まだシンガポールやタイなど海外でするしかなかったですね。日本ではなかなかできなかったんですけど、ブラックジャックみたいな日本の医者がいると知ってお願いしたんです。その先生が一般の病院の空いている部屋を借りてくれて」

 

中山「本当に勇気があるよね」

 

はるな「いえいえ。やりたいと思っていたけど、いざ手術の当日になったら怖くなって、『先生やっぱりやめます』って言ったんですよ。だって一筆『この手術で死亡しても、病院には責任ありません』って書くんですもん!親に電話して、手術するって言えないから『元気?』って言ったら、親も『急にどうしたん?』って。『なんもないけど……。また電話するわ』って電話を切ったけど、最後に親の声を聞いたら、やっぱり怖くなって、『やめます』って。でも、『君のためにこれだけ人を集めたんだよ。今更やめるなんてどういうことだ』って怒られて、『やります』って手術することに(笑)。目が覚めたら、股間がアツかったですね。ガーゼの取り換えに看護婦さんが集まってきて『私たちと一緒だわ』と言ってくれたことで『あぁ、手術終わったんだ』って実感が湧いたんです。傷口だから自分では怖くて見られなかったんですよね」

 

中山「いや〜すごい体験をしてるよね」

 

はるな「私はそれまでの悩みは、体が男なのがすべての原因だと思ってたんですね。女になったら全部解消するし、悩みもなくなると思ってたんです。手術してから男性と恋愛するんですけど、でも問題はそういうことじゃないところにも多々あるし、人間関係や人生の悩みは性のせいではなかった。内面を養って、自分で人生を切り開いて、強く生きていかないと、私はこれからダメだなと気づいたんです。手術で切ってしまったので、自分の子どもは作れないし、親に孫の顔も見せられないけど、もう後戻りできないっていう覚悟もできたので、だからこそよかったなって」

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