「団地の玄関の表札は『蜷川天才』でした。そうやって自分で枠を作って頑張るの、あの人」
演出家の故・蜷川幸雄さん(享年80)の妻であり、写真家・蜷川実花さん(43)の母、蜷川宏子さん(75)は、“あの日のまま”という幸雄さんの書斎で、そう語った。“世界のNINAGAWA”の急逝から100日。初めて明かす2人の出会い−−。
宏子さんにはもう一つの名前がある。’66年に蜷川幸雄さんと結婚したときは「真山知子」という芸名で女優をしていた。当時の幸雄さんはまだ俳優で収入は妻の半分。一家の大黒柱は宏子さんだった。
’62年に真山知子の名前で『劇団青俳』に入団。そこに俳優・蜷川幸雄がいた。ピリピリしていて近寄りがたい存在だったが、すぐに共演の機会がやってきた。
「初舞台の『逆光線ゲーム』で兄妹の役でした。親しくなったのは、名古屋行きの新幹線で隣の席になったとき。まず私が出発時間ギリギリで駆け込んだら『遅いじゃないか』と怒鳴られました。当時はベトナム戦争が本格化していたころで、彼はその背景や世界状況をわかりやすく説明してくれました。『ただの気難しい人じゃなかった。人間として上質』と尊敬の気持ちに変わっていきました」
しかし当時は、どちらにも交際相手がいた。
「秋に2人で日光に行ったとき、枯れ葉が風に舞っていたの。その風景に胸が震えるぐらい感動して、私から『結婚しよう』と言っちゃった。仲人は劇団の先輩・木村功さん夫妻にお願いしました。ただ、蜷川がサルトルとボーヴォワールみたいな『別居結婚をしよう』と言いだしたときは大喧嘩になりましたが」
2人の“ラブストーリー”はここから二転三転する。元彼がストーカーになったのだ。
「デートから帰ると電信柱の陰に立っていたり、局の控室にいたり。それでほだされてしまうのが私。よりを戻しちゃった。訳わかんない」
さらに1年後、偶然に宏子さんが幸雄さんと出くわして、またまた恋が再燃する。
「図々しくも、彼に日光に連れて行ってもらったんです。そうしたら、また感動的に落ち葉が風に舞っていた。もう運命ですよね。それで今度こそ結婚しようということに」
’66年5月、東京・椿山荘での結婚式の仲人は、当然木村さんには頼めず、俳優の岡田英次さん夫妻にお願いした。新婚旅行は軽井沢。新居は蜷川さんの地元・埼玉県川口市内の2Kの公団住宅だった。
「さすがテイラーの息子。針道具をパッと出して千鳥掛けを教えてくれたりする。私、家事は何にもできなかったから、お茶ッ葉の量から何からすべてあの人に教わったの」