東洋人が欧米のバレエ界で“差別的扱い”を受けることは多かっただろう。悔しい思いをしたこともあったに違いない。だが、彼女はバレエへの情熱とたゆまぬ努力で、頂点まで駆け上がってきた。その悔しさや涙を、語るはずもないだろう。彼女は主役(プリマ)なのだから。彼女は今日も英国ロイヤル・バレエ団の舞台に立ち、華麗なる跳躍で私たちを魅了する--。
15歳で日本人初のパリ・オペラ座バレエ学校留学、スイス、オランダを渡り歩き、現在、英国ロイヤル・バレエ団でファースト・ソリストを務める世界的バレエダンサー・小林ひかるさん(40)。留学当時のパリ・オペラ座バレエ学校では、生徒全員が寮生活。周りに日本人は一人もいなかった。
「踊りのレベルが高いので、みんなについていくのに必死で、ホームシックにかかっている時間なんてなかった(笑)」(小林さん)
最初は言葉もわからず、普通の授業についていくだけで大変だった。そのうえ、3年間のバレエ学校卒業後、パリ・オペラ座バレエ団に入団できるのは、1学年でわずか2人という狭き門。ライバルのバレエブーツの爪先に縫い針を仕込んで、ケガをさせた話まで聞こえてくるほど、同級生同士の足の引っ張り合いは熾烈だった。
「いじめられたか?と、よく聞かれるのですが、私は一度もないんです。そもそもバレエ団に入る枠には、非欧州人である私は、最初から入っていなかったんですね。最初から、ライバル視さえされていませんでした」(小林さん)
なんと、学年終わりの進級テストは、フランス人でなければ受けられず、外国人留学生は校長が審査するという、いわば蚊帳の外扱いなのだ。バレエ学校卒業後は、1年ほど、若者だけのバレエ団に所属し、’95年、給料が出るスイスのチューリヒ・バレエ団に入団した。現在、英国ロイヤル・バレエ団一番人気のプリンシパル(最上位ダンサー)で夫のフェデリコ・ボネッリ(39)さんとは、チューリヒで出会った。
プロになった小林さんは、クラシックからモダンまで、幅広い演目に挑戦し、さらなる技術の向上と豊かな表現力を目指して、ボネッリさんとともにバレエ団を渡り歩いた。チューリヒに3年在籍し、オランダ国立バレエ団へ移り、さらに世界5大バレエ団の一つ、英国ロイヤル・バレエ団に挑戦することを決意する。
とはいえ、移籍はすんなりとはいかなかった。ボネッリさんは、プリンシパルとしてすぐに採用されたが、女性の採用枠がなかったのだ。彼女は諦めなかった。バレエ団の採用は年1回のため、今年空きがないなら来年も挑戦しようと考えていた。ところが運よくシーズンの終わりに空きが出たため、夫と一緒に移ることができた。
しかし、オランダでは、主役級の役を踊るようになっていたにもかかわらず、空きが出たのはランクが2段階も下のファースト・アーティスト。うれしかった半面、さすがに即答はできなかった。そのとき小林さん27歳。ロイヤルに入団すれば、それまで積み上げてきたキャリアを、最初からやり直すことになる。ソリストに昇格するためには、30作以上あるロイヤルの全レパートリーをすべて覚えることから始めなければならなかった。
「バレエマスターや友人に相談すると、みんな口をそろえて『このチャンスを逃してはダメ。最初はつらくても絶対、乗り切れる』と励ましてくださって。3日後には、喜んで契約すると返事をしました」(小林さん)
ソリストになるまで3年かかり、’09年、ついにファースト・ソリストに昇進した。ファースト・ソリストに昇進したばかりの’09年12月、小林さんは、多くのプリンシパルを押しのけて、『眠れる森の美女』の主役オーロラ姫に抜擢された。長年、憧れてきた大役を得たと同時に、恐ろしいほどのプレッシャーがのしかかった。イギリス人は、日本人同様、含んだもの言いをして、直接、何も言ってこないが、誹謗中傷は間接的に聞こえてくる。
「悔しい思いをしたことは何度もあります」(小林さん)
出番が来たのに、舞台にたどり着けない。踊っているのに、振付がわからず、手も足も出ない。そんな悪夢を毎晩のように見た。さらに、彼女は男女カップルで踊り、愛を語り合う“パドゥドゥ”で悩んだ。
「ラブストーリーを演じる際、相手を心から愛せるかが非常に重要です。相手を本気で愛せないと、ほとばしるような演技ができませんから」(小林さん)
悩む彼女を力づけたのは、ボネッリさんの「僕はイマジネーションを使うんだ。踊る相手を、自分の愛する人に頭のなかで置き換えて、踊り続けるんだよ」という言葉だった。オーロラ姫を踊る小林さんの脳裏には、ボネッリさんの面影があったのだろうか。また、夫婦で、主役として共演することも2人の共通の夢だった。その夢は、ロイヤルの『眠れる森の美女』で、これまで3回、かなえている。